写真1. 現在のアードモア蒸溜所の蒸溜室:8基(初溜4基、再溜4基)のポット・スティルが並ぶ蒸溜室は迫力がある。年間100%アルコールにして5,400klaを生産する。
写真1. 現在のアードモア蒸溜所の蒸溜室:8基(初溜4基、再溜4基)のポット・スティルが並ぶ蒸溜室は迫力がある。年間100%アルコールにして5,400klaを生産する。
アードモア蒸溜所は、前章で述べたグレン・ギリー蒸溜所から約30㎞西へ行ったケネスモント(Kennethmont)の村にある。村は人口500人足らずの長閑な(お天気が良ければの話だが)田園の中にある。蒸溜所の建設はビクトリア時代も終わりに近い1898年。それまで自社の蒸溜所を持たず、他社から原酒の供給を受けて製品を作るブレンダーのウィリアム・ティーチャー・アンド・サンズ(Wm Teacher and Sons)社が、ハイランド・クリームの成功で自社蒸溜所を持つ必要があると考えて建設した。以降、歴史の波に揉まれながら現在はビーム・サントリーが所有し、同社がスコットランドで所有する5蒸溜所の中で最大の規模を持つ。因みに、他の4つの蒸溜所の規模は、Laphroaig(3,400kla), Bowmore (2,000kla), Auchentoshan (1,800kla), Glen Garioch (1,300kla)* である。
*前第127章の中でGlen Garioch蒸溜所の能力を2千klと書きましたが、公式には1.3千klaでしたのでお詫びと訂正をさせていただきます。
Ardmore蒸溜所のモルト・ウイスキーは、世界的ブランドであるティーチャーズ・ハイランド・クリームのブレンドのバックボーンであり、また魂でもある。蒸溜所の説明の前に、建設者であるウィリアム・ティーチャーズ・アンド・サンズ社の歴史について触れておきたい。
ウィリアム・ティーチャーズ・アンド・サンズ社 社歴
1811年:この年、ティーチャーズの創業者のウィリアム・ティーチャー(William Teacher、以下ウィリアム)が、グラスゴーの西約20㎞のペイズリー(Paisley)で生まれた。母は貧しい紡績工場の労働者だった。紡績工場はペイズリーから西10㎞のブリッジ・オブ・ウィア(Bridge of Weir)村にあった。ウィリアムは7歳で母と同じ紡績工場で働き始めた。当時の紡績工場の労働条件は劣悪で、一日の労働時間は12時間、賃金は現在価値に換算して週給が男子で7,000円、女子は3,000円、子供は1,300円であったし、環境は騒音と埃、危険な装置、暴力行為が絶えなかった。彼が小学校に通えたのは数か月だけだった。
1822年~:ウィリアムは紡績工場をやめ、仕立屋のロバート・バー(Robert Barr)の見習いになった。ロバートは教養のある男で、ウィリアムの聡明さを見抜いてよく教えたし、上流階級の顧客からの注文取りにも同行させた。この経験からウィリアムはどんな仕事をするにも品位を持って信頼を得ることがかなめであることを学んだ。又、読書に励み、学校に行けなかったハンディキャップを克服していった。
数年後にウィリアムは紡績工場に戻ったが、そこには間断ない機械の騒音に満ちた苦しい環境が待っていた。正義感に満ちたウィリアムは次第に社会改革の思考を持ち、種々のデモに参加するようになった。ある時は、工場の屋根に上って改革派の旗を振ったというが、当時ストライキは違法でストの指導者は極刑になったと言うから、ウィリアムの行為は極めて危険であった。
1830年:ウィリアムはガールフレンドのアグネス・マクドナルド(Agnes McDonald)の母親がグラスゴー市の西はずれのアンダーストン(Anderston)に開いていた食料品店を手伝うようになり、店の一角に酒類を置いた。彼の人生の大転換期であり、後のティーチャーズ・ウイスキーの出発点であった。
1834年:ウィリアムとアグネスは結婚。
1836年:長男ウィリアムJr 誕生。
1839年:次男アダム誕生。50チープサイド・ストリート(Cheapside Street)に食品店を出店。(因みに、Cheapside Streetは1960年3月にこの通りに面していたウイスキーの貯蔵庫から出火し、鎮火にあたった消防士や救出隊員19名が犠牲になる大惨事があったところである)。
1853年:The Licensing (Scotland) Act施行。それまでショップやイン、ホテル、レストランでは自由に酒を売っていたが、この法律で2種類の免許が施行された。ショップでは酒は持ち帰りだけが許されその場で飲用することは許されないOff- license免許が、もう一つの免許はバー、レストラン、ホテルのようなその場で飲用できるOn-license免許が与えられた。
1859年:450アーガイル・ストリート(Argyle Street)に第1号のドラム・ショップ (Dram Shop)を開店。Dramは一杯と言う意味で現在スコットランドでは約35mlであり、ドラム・ショップは“一杯屋”、“ショット・バー”である。アーガイル・ストリートはクライド川の沿っていて、折からの産業革命で急速に発展していた港湾や造船所で働く労働者で溢れていた。長時間の重労働を終えた労働者にとって、ドラム・ショップでの一杯はまさに命をつなぐ一杯だった。ドラム・ショップは盛況を極め、ウィリアムの狙いは当たった。それから25年の間にティーチャーズのドラム・ショップは18店舗まで拡大した。
写真2.ティーチャーズのドラム・ショップの様子:グラスゴーのWest EndのKelvin Hallにあった元交通博物館に、19世紀後半―20世紀前半のグラスゴーの通りの様子が再現されていて、その一角にティーチャーズのドラム・ショップがあった。交通博物館は2011年から新設されたRiverside Museumに移転し、この古い町並みはRiverside Museumへ移設されているが、バーはTeachersからThe Mitreに変更になっている。
ウィリアムのドラム・ショップの経営方針は厳格だった。店内は清潔、禁煙、Standing of Round(グループで飲んでいて、次は俺、次は俺とおごりあう事)の禁止、酔っぱらいは特別に雇った屈強のハイランダーが出口までエスコートした。何より品質を重視した。免許制度が導入されてからもグラスゴーにはインチキウイスキーを売る潜り酒場が多く、ティーチャーのウイスキーは評判を高めていった。1865年にモルトとグレーンのブレンドが許されるようになると自前のブレンデッド・ウイスキーを提供した。この高モルト比率のブレンドは後にTeacher’s Highland Creamに続くことになる。こういった現在の基準から見ても厳格なバー管理は、禁酒運動の高まりや厳しくなるライセンスへの対応という現実的な目的もあった。
写真3. ウィリアム・ティーチャー:撮影時の年齢は分からないが若手実業家として頭角を現していた頃と思われる。聡明さを表す秀でた額、強い意志を示す目元である。180㎝の長身でもあった。(Acknowledgement: Suntory.co.jp)
1864年~:事務所を市の中心部のセント・イーノック・スクエア(St Enoch Square)へ移す。セント・イーノック・スクエアはその後交通と商業の中心として急速に発展するのでウィリアムがここに事務所を移したのは先見の明があったと言える。セント・イーノック・スクエアは今のセントラル・ステーション駅の東側に隣接している地域である。グラスゴーから北東や南西へ向かう鉄道の起点の駅は1876年に完成、1879年には駅の上に客室200の大型ホテルが完成した。駅とホテルはグラスゴーで最初に電灯が灯った。又、現在も走っているグラスゴーの地下鉄の掘削作業は1891年にセント・イーノック・スクエアから始まり1896年に完成した。地下鉄は外回りと内回りの2車線の環状線で全長10.5㎞、15の駅がある。完成時は動力用の電源がなかったので、客車は地上に設置された蒸気エンジンで引っ張るワイヤーで牽引して走行した。電化されたのは1935年である。
写真4.電化される前の地下鉄の先頭車両:復元整備されたもので、グラスゴーのRiverside Museumに展示されている。約30人まで乗れる。
写真5. セント・イーノック・スクエアにあるティーチャーズ・ビル:この建物は1875年に建てられたもので現在はBリスト指定建造物になっている。屋上にはティーチャーのシンボルのサイン、本社であったが必要なスペース以外は高額の建設費の回収の為出来るだけ多くのテナントをいれた。ティーチャーズの本社として1991年まで使われた。写真は2003年撮影。
1876年:ウィリアムの3女アグネス・ティーチャー、元ドイツ海軍の設計者だったウォルター・カール・ベルギウス(Walter Bergius)と結婚。ウォルターはプロイセンの偏狭な軍事国家主義から逃れてきていた。ベルギウス家は3代にわたり技術的知見を活かしてパッケージングの新発明や工場の新設に多大な貢献をすることになる。
ウィリアム・ティーチャー死去。世界的ブランドのティーチャーズを作り上げた業績以外にも、社会活動として労働条件の改善、社会福祉の向上、チャリティーに熱心だった。これは自身の幼い時から紡績工場で働き過酷な労働条件の改善を求めて労働運動にかかわった経験に由ると思われる。
1884年:ティーチャーズ・ハイランド・クリーム商標登録。ティーチャーズが、1859年から始めたドラム・ショップで売ってきたブレンデッド・ウイスキーのレシピは確立されていたが、海外輸出を促進して行く上で登録された商標は不可欠なのでこの年商標登録された。
1890年:後継のウィリアム・ティーチャー・Jr死去。会社は次男のアダムが継承。
1898年:アダム死去。経営はロバート・ハート(Robert Hart)、ウィリアム・カーティス・ティ-チャー(William Curtis Teacher)、ウィリアム・マネラ・ベルギウス(William Manera Bergius)の3人のパートナーに引き継がれた。アードモア蒸溜所完成。
1913年:簡易開栓ストッパー(コルク栓の上に口径の大きなヘッドを付け、ヘッドを回すとコルク・スクリューなしで栓が開けられる)を開発し特許化。
1914年~:第一次世界大戦(1914-1918)の始まったこの年から、英国内はウイスキーへの増税、アメリカの禁酒法(1920-1933)、大恐慌(1929)とウイスキー業界には困難な時代だった。禁酒法時代、ティーチャーズはアメリカのギャングとは関係を持たなかったが、アメリカとの国境に近いカナダにはウイスキーを輸出した。その理由は“アメリカ人にアメリカの有害なウイスキーでなく本当のスコッチ・ウイスキーを届けたい”だった。禁酒法の撤廃を前にしてティーチャーズは、ニューヨークの有力なエージェントを選び禁酒法後の発展に備えた。
1939年-1945年:第二次世界大戦。大戦後期には蒸溜は停止、ウイスキーも割り当て制になった。
1959年:外貨獲得の為の輸出優先策が解除された。最後まで残っていたドラム・ショップが閉店しドラム・ショップ100年の歴史を閉じた。グラスゴーの港湾や造船も衰退し労働者も疎らになった。時代に合わなくなったのである。以後、ティ-チャーズは瓶詰したブランド製品を国内外に売って行くメーカーになった。
1960年:ティーチャーズ、グレンドロナック(Glendraonach)蒸溜所を購入。
1962年:セント・イーノック・スクエアから北東に約3㎞のクレイグパーク(Craigpark)に新ブレンド・ボトリング工場が完成した。約72億円の投資で、当時の最新鋭設備が完成し、製品は英国内市場と世界の150カ国へ送られた。
1967年:ボトルデザインを変更し、セルフ・オープニングの栓から、ジガー・キャップ(キャップがジガーJigger=35mlの計りになる)のスクリュー・キャップになった。
1972年:ティーチャーズの英国内の販売が100万C/Sを突破。
1976年:英国、バートン・アポン・トレント(Burton upon Trent)の大手ビール会社、アライド・ブリューワリーズ(Allied Breweries)がティーチャーズを合併。ティーチャーズは今後の発展の為には原酒在庫の積み増し、設備増強、マーケティングに多大な資金が必要だったがティーチャーズ単独では無理があり、どこか大手との合併が必要だった。アライド・ブリューワリーズ側も自社のパブ・チェーンで提供するウイスキーを必要としていたので両社の要求に叶うものだった。
1978年:アライド・ブリューワリーズは、ティー・ハウス・チェーン、レストラン、食品メーカーのライオンズ(J. Lyons & Co.)社を買収しアライド・ライオンズ(Allied Lyons)となった。
1987年:アライド・ライオンズはカナダのハイラム・ウォーカー・アンド・サンズ(Hiram Walker &Sons)のスコッチ・ウイスキー部門を購入、酒類部門を纏めて子会社のアライド・ディスティラーズ(Allied Distillers)とした。アライド・ディスティラーズはティーチャーズ、バランタイン、クリーム・オブ・ザ・バーレーのブランドと、Ardbeg, Miltonduff, Glenburgie、Glencadam他の蒸溜所を持ことになった。
1988年:ティーチャーズのクレイグパークのブレンド・ボトリング工場は閉鎖。生産はハイラム・ウォーカー社が持っていた最新のキルマリッド(Kilmalid)へ移転した。
1989年:アライド・ディスティラーズ、ウィットブレッド(Whitbread)のスピリッツ部門を買収。ウィットブレッドのスピリッツ部門は、Laphroaig, Tormore、Glenugie、Kinclaithのモルト蒸溜所とStrathclydeグレーン蒸溜所、Black Bottle, Long Johnのブレンデッド・ウイスキー、Plymouthジンを持っていて、これらがアライド・ディスティラーズに加わり、世界第2のウイスキー会社が誕生した。
1998年:アライド・ライオンズはスペインのワイン・メーカーのペドロ・ドメック(Pedro Domecq)を買収し、アライド・ドメック社となる。
2005年:フランスのペルノ(Pernod)とアメリカのフォーチューン(Fortune、後にBeam)が共同でアライド・ドメック社を買収。ブランドと生産設備は独禁法も踏まえて2社の間で配分された。ウイスキーだけ見ると、ぺルノにはバランタインとScapaが、BeamにはTeacher’s、Ardmore, Laphroaig, Canadian Club, Maker’s Markが行った。
2014年:サントリーがBeamを買収し, Beam Suntoryを創設。
こうして見ると1970年代以降の酒類企業のM&Aは苛烈且つ複雑である。本論のティーチャーズのオーナーの変遷だけ見ると、William Teacher and Sons→Allied Breweries→Allied Lyons(Allied Distillers)→Allied Domecq→Fortune(Beam)→Beam Suntoryとなる。ティーチャーズは1830年からの歴史あるブランドだが、オーナーが変わるといつも優先されて来たとは言い難い。長期的に考えてブランドを育成すると言われる日本企業の下で今後の着実な発展が期待される。
製品
現在入手可能な製品はティーチャーズのハイランド・クリームと、日本国内では終売になったティーチャーズセレクトがあり、また、インドでは様々な製品が展開されている。前述のように商標登録されたのが1884年だが、これよりも前から製品は作られており、160年以上の歴史を持つブランドである。
写真6. 現在のティーチャーズ・ハイランド・クリーム。
(Acknowledgement:suntory.co.jp)
香味特性は次のように表現されている。
色調: 黄金色を含む琥珀色
香り: ハイランド・ピート、こくのある麦芽香、熟したリンゴと洋梨、ハニー
味わい:エキサイティング、丸みと温かみ、豊かな麦芽味と熟成感、深みと絹のような滑らかさ、確かな質感がある
後味: バランスが良く複雑でフルネスがあるがクリーン、長い後味
(Acknowledgement: teacherswhisky.com)
クラシックなタイプのブレンドで飲みごたえのあるブレンデッド・ウイスキーである。