スコットランドの首都エジンバラ。中心部にそそり立つ岩山の上のエジンバラ城、旧市街のオールドタウンと18世紀に建設されたニュータウンと二つの世界遺産のもつこの都市は、その美しさから“北のアテネ"と称される。スコッチウイスキーと聞けばハイランドやアイラ島など、都市から離れた地域のイメージが強いが、スコッチの発展は3大ウイスキー都市といわれたエジンバラ、グラスゴー、パース抜きには成し得なかった。今回は「エジンバラとウイスキー」の話です。
スコットランドの首都エジンバラ。中心部にそそり立つ岩山の上のエジンバラ城、旧市街のオールドタウンと18世紀に建設されたニュータウンと二つの世界遺産のもつこの都市は、その美しさから“北のアテネ"と称される。スコッチウイスキーと聞けばハイランドやアイラ島など、都市から離れた地域のイメージが強いが、スコッチの発展は3大ウイスキー都市といわれたエジンバラ、グラスゴー、パース抜きには成し得なかった。今回は「エジンバラとウイスキー」の話です。
市の歴史
A.始まり
エジンバラ城の城門:スコットランド建国の2人の英雄、ロバート・ブルース(左)とウィリアム・ウォーレス(右)の像。上部ブルーの銘板にはラテン語でスチュアート王朝のモットーの“我に挑戦する者は必ず罰せられる“と書かれている
エジンバラに人類が住み始めたのは7000年前から。2世紀にはローマ人が近くのForth湾沿いに砦を築いたが、当時この時代辺りに居住していたのはボタディニ(Votadini)で、エジンバラの名前はこのボタディニをケルトのスコットランド人(Scots)がDun Eidinと呼んだ事に由来する。7世紀から10世紀までエジンバラはスコットランドと北イングランドのアングル人との間でお互いに争奪を繰り返したが、 11世紀からはスコットランドが一応の確保に成功した。以後エジンバラ城はスコットランド王室の居住地、スコットランド王室のシンボルとなった。
B.発展
アダム・スミスの墓:エジンバラ城からホリールード宮殿へは約1マイルの距離。ロイヤル・マイルと言われるこの通りのキャノンゲート教会にアダムスミスの墓がある
その後エジンバラは王室、行政と教会が中心になって発展した。15世紀にはパン屋、肉屋、靴屋、毛皮商、織屋、仕立屋、帽子職人、大工、金細工職人、石工、外科医等多数のギルドが生まれ、人口も増加した。16世紀に入ると、市域、経済、学術も著しく発展した。今はエジンバラの一部のリース(Leith) はエジンバラの外港としてヨーロッパとの交易で栄えた。多くのワイン商がおり、大陸からはワインだけでなく文化も流入した。18世紀から19世紀前半にかけてエジンバラでは文化が一斉に花開する。スコットランド啓蒙時代と言われるこの時代には文学、科学、医学、芸術等の多くの分野で偉業がなされた。哲学者のデヴィド・ヒューム、化学のジョゼフ・ブラック、建築のロバート・アダムス、灯台のスティーブンソン父子、経済学のアダム・スミス、文学のロバート・バーンズ、ワルター・スコット、ルイ・スティーブンソン等、我々がよく耳にする多くの偉人が輩出した。
C.産業
1842年には鉄道が到着した。この頃エジンバラでは、出版(Books)、ビスケット(Biscuits)とビール(Beer)の3B工業が盛んだった。出版は、エジンバラが中心だった政治、行政、教育、教会に関連して発達し今も盛んであるが、リース川の製粉工場から派生したビスケット(クロフォードやマクヴィティーのような有名ブランドを生んだ)は、今はロンドンやマンチェスターへ移ってしまった。1940年には40工場もあり大醸造地だったビ-ルも今は2工場を残すだけになっている。
ウイスキー
A.古い記録
スコッチウイスキー最古の文献:1494年の王室出納簿(Exchequer Rolls)と学芸員のロジー博士。エジンバラ総合登記所にて
エジンバラにはウイスキーに関する古い記録が多い。その幾つかをご紹介する。
この蒸溜所、物的遺産は皆無だがその栄光の歴史を語る物語は豊富である。最初に蒸溜所が出来た時期は資料によって異なるが、18世紀末にはここにあった僧院に蒸溜所があったという。1822年にはジョン・スミスが小さな450リッターの釜で操業した。
1. エジンバラ城の北側、公園に沿って東西に走るプリンセス通りの東端に壮麗なスコットランド総合登記所(General Register House)の建物がある。古今の登記、登録、免許などの記録が収集されているが、中でも有名なのがウイスキーに関する最古の記録、1494年の王室出納記録(Exchequer Roles)である。その記述には“王の命により、蒸溜酒(aqua viate)製造の為に修道士ジョン・コァに麦芽8ボールを支給"とある。
2. 1505年にエジンバラの外科・理髪師のギルドが市から正式の認証を与えられて設立され、同時に市内での蒸溜酒の独占製造権を与えられた。
3. 18世紀までエジンバラ市内でウイスキーが盛んに蒸溜されていた。1777年には400以上の密造蒸溜器が稼動していた。因みに正式にライセンスを受けたものはたった8蒸溜所だった。
4. 18世紀後半から19世紀前半には市内に10以上のモルト蒸溜所と2つのグレイン蒸溜所があった。
B.ブレンド発祥の地
アッシャーホール:ブレンデッドウイスキーを始めて世に問うたエジンバラのブレンダー、アンドリューアッシャーがエジンバラ市に建設資金全額を寄付して建てられた。建設の遅れからアッシャーは、切望していたこのホールでの初演を聴く事無く他界した
パティソン社の本社だった建物:豪華絢爛たる内装調度は倹約を旨としていた多くのブレンダーの度肝を抜いたという。現在は半分がレストラン、半分が事務所に使われている(Edinburgh在住田村氏提供)
スコッチウイスキーヘリテージセンター:エジンバラ城の直ぐ近く。スコッチウイスキーの全てが分かるようになっていて、蒸溜所に行く時間の無い人に便利。レストラン、売店も充実している(田村氏写)
最近スコッチ・シングル・モルトの人気が高いが、それでもスコッチウイスキー全体の消費に占める割合は数%で、主力はブレンドである。ブレンデッドウイスキーは19世紀中頃、ここエジンバラで誕生した。
1. アンドリュー・アッシャー(Jr.)
父アンドリューが1813年にエジンバラで開設したスピリッツ商アッシャー商会は、1853年に数種のモルト同士を混ぜ合わせた「Old Vatted Glenlivet」を発売した。1860年の法改正で、モルトとグレインのブレンドが非課税で許されるようになると、アンドリューは直ちに世界初のブレンデッドスコッチ「The Usher's」を発売した。アッシャーにはフレンドの始祖の栄誉が与えられているが、後に彼はグレーンの蒸溜会社North British Distilleryも設立成功を収めた。晩年には慈善家としても知られ、クラシックのコンサートホール建設の為の資金をエジンバラ市に寄付している。
2. ジョージ・バランタイン
エジンバラでアッシャーとほぼ時を同じくしたのがバランタイン・スコッチ (Ballantine)の生みの親、ジョージ・バランタインである。13歳の時から、エジンバラで食料品、ワイン、ウイスキーを扱う商人のもとで徒弟修業をした彼は、1827年に独立して自分の食料品店を開店する。次第に成功を収めた彼は、エジンバラでより高級な地域に店を移し、1836年ころからウイスキーに力を入れるようになった。バランタインが同時代のアッシャーとどのような交流があったのか良く分かっていないが、お互いの店は徒歩で10分くらいしか離れていなかったので、度々会っていたのではないだろうか。1869年からバランタインのウイスキー事業の中心はグラスゴーに移ったが、エジンバラがバランタイン・スコッチの故郷であった。
3. エジンバラ生まれの他のブランド
19世紀後半にエジンバラはVat 69, Mackinlay, Old Par, Highland Queen, Crawford, Antiquary等の有名ブランドを生みエジンバラのウイスキー産業は大いに栄えた。
4. 暗雲
ブームの影には危機が忍びよる。19世紀終盤のウイスキー・ブームは1898年に崩壊した。リースの新興ブレンダー、パティソン商会はその激しいマーケティング、急速な拡大主義、金使いの荒さで有名だったが行き詰まり倒産した。ウイスキー市場は暴落し連鎖倒産は10社以上に及んだ。裁判の過程でパティソン社の種々の不正、資金繰りを付ける為の原酒の空売り、在庫金額や株価の嵩上げ、彼らが売っていたハイランド・モルトはグレイン・スピリッツに極少量のモルトをブレンドしただけの代物だった等、が発覚した。経営者のパティソン兄弟は禁固刑に処せられた。
このように、長い歴史を持つエジンバラのウイスキー産業だが、ビスケット、ビールと同じく昔日の栄光はない。現在のエジンバラは、製造業は縮小したが、行政と金融の町としてはロンドンに次ぐ。産業も、多くの歴史的建造物や美術館、フェスティバル等を中心とした観光産業、優れた大学や多くの研究機関がありソフト化が進む。ウイスキーでも広報のヘリテージ・センター、法律の番人スコッチ・ウイスキー協会、研究開発のHeriot-Watt大学とスコッチウイスキー研究所はエジンバラにある。