スコッチ・ウイスキーは、スコットランドで何百年も前から造られてきた代表的な伝統産業で、その造りは長年経験によるクラフトマンシップ(職人の技)に依ってきた。今でも、ブレンドや品質の評価にはこの要素が強いが、過去半世紀の間の科学と技術の進歩はめざましく、品質、生産効率の向上に多大の寄与をしている。科学と技術にはそれを支える人材の教育と基礎研究がかかせない。
エジンバラにはビールやウイスキーの醸造学を教え、その基礎学問を研究する研究センターをもつユニークな大学がある。大学の名前はヘリオット-ワット大学 (Heriot-Watt University)、今回はその大学と、そこにおける醸造学の教育・研究の歴史と現状について述べる。
ヘリオット-ワット大学の旧校舎:エジンバラの中心街チェンバース・ストリートにあり、1878年の完成以降110年以上ヘリオット-ワット大学を育んだ。現在は裁判所になっている。
ジェームス・ワット像とヘリオット-ワット大学正面前の広場:1973年から大学は順次このリッカートンにある新キャンパスに移転した。近代的なキャンパス内には学生が生活できる環境 ― 宿舎、食堂、パブ、銀行、スーパーから散髪屋まで整っている。
大学の歴史は1821年、エジンバラのマーチャントだったホーナー(L. Honer)が、当時の機械職人が簡単な計算も出来ないことを危惧し彼らの為に夜間の技工学校を開設した時に遡る。この夜間学校は1841年にワット専門学校(The Watt Institute and School of Art)に発展した。名前のワットは、機械に関する実学を教える学校にふさわしく、蒸気機関の性能を革新的に向上させた発明家ジェームス・ワットに因んで命名された。
授業には当初エジンバラのサウス・ブリッジにあった家を使っていたが、1871年に近くのチェンバース・ストリート(Chambers Street)に新築された校舎に移る。ストリートを挟んでスコットランド・ロイヤル博物館とスコットランド博物館の真正面である。
1879年にはエジンバラのジョージ・ヘリオット病院学校(George Heriot Hospital/School)の一部と合併してヘリオット・ワット・カレッジになっている。ヘリオットは17世紀の金商人で、この病院は彼の遺産と遺言で創設された。専門学校当時、化学、数学、自然などの理科系に限定されていた学科は次第に拡大し、昼間コースが始まった1885年には数理工学、物理、化学、電気工学の学科をもち、1905年には応用菌類学が加わった。後に醸造学科はここから始まった。
1966年にヘリオット-ワット・カレッジは従来からの科学・工学系に人文系の学部を加えて総合大学に昇格した。チェンバース・ストリートの学舎を引き続き使ったが、大学の拡張とともに手狭になり郊外への移転が検討された。
エジンバラ市の西方、空港すぐ近くのリッカートン(Riccarton)。1969年、大学は元ギブソン-クレイグ家のエステートだったこの150万平方 mもある広大な敷地を州政府から寄付され、ここに大学を移転することを決定する。移転は1973年から始まり、今では総学生数18000人、内このキャンパスに通う学生は8000人、他の分校や通信教育(Distance learning)の学生は10000人、大学スタッフ1000人の大大学になっている。
現在の組織は、学部教育と大学院コースをもつ6スクール:School of Built Environment, School of Engineering and Physical Sciences, School of Life Sciences, School of Management and Languages, School of Textiles and Design, と大学院コースのみのEdinburgh Business School, Institute of Petroleum Engineering がある。1821年に機械職人に学問的な基礎を教える夜間コースから出発したことを考えるとその発展はまことにめざましい。
ヘリオット-ワット大学の醸造学教育は、1904年に化学学部の中にビール醸造の基礎を教える特別コースを設けることから始まった。当時、エジンバラには 30を越すビール工場があったが、伝統的な職人技に頼るところが多く、ビール醸造の近代化に伴って醸造関係者に技術教育を行う必要性が高まっていた。
当時の英国のビールの主流は伝統的なエール(Ale)と呼ばれる上面発酵ビールで、現在主流となっている下面発酵のラガー(Lager)とは異なるが、ヘリオット-ワット大で最初にビール醸造を教えのはデンマークのカールスバーグ(Carlsberg)研究所でアルフレッド・ヨルゲンセン(Aflred Jorgensen)教授の助教授であったエミール・ウェステルガート(Emil Westergaart)博士である。ウェステルガートはグラスゴーのビール会社テナント(Tennent)社が、ラガービールをはじめたときに指導にきていたものである。当時、デンマークのビール醸造の科学と技術の水準は世界で群を抜いていた。
醸造コースは1920年にエジンバラのビール業界の支持を受けフルタイムの醸造コースに発展する。この時の指導教官はホプキンス(R.H. Hopkins)で、教育の傍ら醸造の生化学の研究を精力的に行っている。醸造工程上の問題への科学的なアプローチを推進し、発酵におけるpHの影響、麦芽中の蛋白分解酵素、ビールの微生物安定性、発酵中の酵母の糖類の選択的資化等彼の行った研究は当時のレベルとしては高度なものであった。1931年にホプキンスはバーミンガム大学の醸造学部に移るが、その後にホプキンスが著した「製麦とビール醸造の応用生化学」は当時はビール研究者と技術者のバイブルであった。
ヘリオット-ワット大の醸造学科はその後も優れた指導者に恵まれた。ホプキンスの後を継いだプリース(I. A. Preece)教授は、1930年から1964年の非常に困難は時代に教育、研究、学会誌の編集、学科のマネージメントに大きな功績を残した。
1964年プリース教授が急逝、ケンブリッジ出身で炭水化物の代謝、構造研究の精鋭学者マナース(D.J.Manners)が就任した。1966年にはヘリオット-ワットはカレッジから総合大学になり、醸造生化学部もビール業界との連携を強めつつも研究と教育面で一層の向上が求められた。学生の教育、スタッフの充実、優秀な研究者の確保、研究の高度化などでマナースの上げた成果は大きかった。
マクラウド(A.M.MacLeod)教授は植物学者で、大麦の発芽機構の研究で大きな成果を残したが、ヘリオット-ワット大学で最初の女性教授、また英国醸造協会(Institute of Brewing)初の女性総裁に就任し、醸造関係者の尊崇を集めた。タバコ(シガーも)とヘビー・ビールを好む個性的キャラクターの持ち主としても有名であった。彼女の弟子のパーマー(Geoff Palmer)教授は大麦の発芽時のジベレリンの作用を解明し、製麦工程への応用技術の開発で知られている。
パイロット醸造設備:麦芽、ホップ、イースト、仕込みや発酵の条件がビールやウイスキーの品質へどのような影響を与えるか実際の生産に近い条件で調べることができる。
パイロット・ポット・スティル:スティル本体は耐熱ガラス製だが、ウイスキーの蒸溜時に欠かせない銅反応の影響や蒸溜のスピード、カットの影響などを研究することに使われる。
現ICBDのディレクター、ヒューズ教授:元ビール会社の研究者でホップ化学の専門家。今後の重要研究分野として、人の感覚に近い分析技術、品質の評価技術、食品安全性、成熟社会と商品におけるイノベーションに関心があると言う。
スコッチウイスキー研究所:ヘリオット-ワット大学から歩いて7-8分の研究村にある。30人近いスタッフを擁し、ウイスキーの原料から製品に至るまですべての工程の製品品質や安全性に与える影響を研究している。
醸造生化学部は1989年に新キャンパスのリッカートンへ移転する。ほぼ時を同じくして設立されたのがICBD(International Centre for Brewing and Distilling)である。ビールやウイスキーのような実業に関係した教育や研究は業界と密着した共同体制を組むことが求められるが、ICBDの設立はこれを目的にしている。具体的には、教授陣に企業人を迎えること、パイロット・プラントのような設備は業界の協力で備えられたこと、研究者や研究テーマを広く企業から受け入れていることなどが上げられる。
産業界からICBDに迎えた教授陣には、ビール業界からはグレアム・スチュワート(Graham Stewart)、ジム・シートン(Jim Seaton)と現所長のポール・ヒューズ(Paul Hughes)など、また従来はビールほどは関係が深くなかった蒸溜酒業界からもロニー・マーティン(Ronny Martin)やアラン・ラザフォード(Aran Rutherford)などの面々がいる。
過去に行われたウイスキーに関連した研究テーマの実例を挙げる。「ピートの産地に違いによるウイスキーのピート香への影響」、「麦汁の濁度の品質への影響」、「ウイスキーの発酵中の乳酸菌の研究」、「樽材のタンニンの研究」などがある。
現在、かってヘリオット-ワットで醸造を学んだ卒業生の多くが、世界中のビール、ウイスキー、その他多くの発酵関係の企業、大学や研究所で要職を占め活躍しているのは教育面での成果であろう。
スコットランドのウイスキーに関係した研究・開発の話はこれで終わりではない。ヘリオット-ワット大学のすぐ北に隣接するリサーチ・パークにはスコッチ・ウイスキー研究所(Scotch Whisky Research Institute)がある。ここは、スコッチ・ウイスキーの各社がメンバーになって運営している研究所だが、ICBDとの連携も密である。
研究施設だけでなく、研究活動にかかせないよりソフトな活動、例えば、英国醸造・蒸溜協会のスコットランド支部の活動、同協会の協会誌の編集、世界蒸溜酒学会の開催などもヘリオット-ワット大学が中心になっていたり深くかかわっている場合が多い。
1. Biochemistry applied to Malting and Brewing, Reginald Haydn Hopkins and B. Krause, D. Nostrand Company, New York, 1937.
2. Brewing and Biological Sciences at Heriot-Watt University 1904-1989. David J. Manners, Heriot-Watt University 2001.
3. Heriot-Watt School of Brewing and Distilling 1903-2003 byIain Campbell
4. Heriot-Watt University Edinburgh
5. Heriot-Watt University :Wikipedia-The Free Encyclopedia
6. Overview of Heriot-Watt University :Gazetteer for Scotland