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稲富博士のスコッチノート

第68章 厳冬のウイスキー・フェスティバルその2-ヘルシンキ

港から望んだヘルシンキ市街:2月中旬、この日は快晴・微風で、この時期のヘルシンキとしては穏やかな天候だったが、気温は零下12度、ホテルの前の港は完全に氷結していた。

それにしても真冬のヘルシンキは寒かった。前回ご紹介したスウェーデンのリンシェーピンのウイスキー・フェスティバルが2月初旬、その翌週にフィンランドの首都ヘルシンキにやってきたのだが、零下12度の寒さは一際だった。ホテルの前の港は完全に凍結、町を歩くときは耳まで覆う防寒帽、マフラー、手袋はもちろんのこと厚手のダウンのコートの襟を立てて行くのだが、5分も歩くと露出している顎や鼻はひりひりとしてくる。カメラのシャッター音もカシャという軽快な音ではなくグシャとした感じに変わり、大丈夫かなと心配になる。ヘルシンキに来たのはここのウイスキー・フェスティバル「ウィシケ(Uisge)」に参加する為である。


フィンランド

スオメンリンナ要塞の大砲:要塞の南岸地域では、ロシアの侵攻に備えて多くの大砲が配備されていたが、要塞がロシアの手に落ちてからは、今度はスウェーデンやドイツの攻撃に備えることになる。寒々として雪の中でこの大砲は、フィンランドの過酷な歴史の一端を今に語るかのようであった

この北欧の国は、面積は日本より広いが人口は540万人で日本の20分の一以下の小国である。人口の93%はフィン族、スウェーデン人が6%を占める。西はスウェーデン、東はロシアという強国に接するこの国は、12世紀から19世紀初頭まではスウェーデンの一部だったし、その後1917年までの100年間は帝政ロシアの支配下に置かれ、長年小国の悲哀を味わってきた。ロシアからの独立を果たしたのは1917年であるが、そのためには多くのフィンランド人の血が流された。

ヘルシンキの沖合い数kmに、連なった4つの小島からなる要塞地域、スオメンリンナ(Suomenlinna)がある。ユネスコの世界遺産に指定されているこの海城は、フィンランドがまだスウェーデン領だった18世紀中頃にロシアとの戦争に備えて建設が始まり、18世紀後半のスウェーデンーロシア戦争では基地として使用された。19世紀始めの対ロシア戦争(The Finnish War)で、スオメンリンナはロシア軍に占拠され以後100年間フィンランドはロシアの統治下に入ることになる。

フィンランドの代表的な作曲家のシベリウスが交響詩「フィンランディア」を作曲したのは1899年。この愛国の心情をこめた交響詩はロシアによって演奏禁止になったが、フィンランド人を勇気付け独立に大きな役割を果たした。ロシア革命の1917年、フィンランドは独立を果たすが、その後も内戦の勃発、第二次世界大戦と苦難の時代は続いた。


第二次大戦が終わった頃のフィンランドは, 第一次産業が50%を占める貧しい国であったが、その後の工業化、サービス産業化は急速で、2011年のフィンランドの一人当たり名目GDPは世界第12位になる(因みに日本は18位)。国際的な競争力、教育レベル、社会の安定度の高さは群を抜き、もっとも生活しやすい国の一つに上げられている。

ウイスキー・フェスティバル「ウィシケ(Uisge)」の会場

「ウィシケ」の会場「Vanha」:元学生寮だったこの建物は今はレストラン、バーが入り、週末はライブで学生や若い人で賑わう。「ウィシケ」のようなイベントにも使われている。

隣国、いや200年前までは同じ国だったスウェーデンがヨーロッパでも有数のウイスキー消費国になったのと対照的に、フィンランドではロシアや東欧と同じく依然ウオッカの消費が多く、一人当たりのウイスキーの飲用量はスウェーデンの四分の一程度である。首都ヘルシンキのウイスキー・フェスティバル「ウィシケ」は、昨年始まったので今年が2回目ということになるが、ウイスキーへの関心は若者や女性を中心に高まっているという。「ウィシケ」はご存知のウイスキーの語源となったゲール語のUisge Beathaからの命名である。会場となったのは町の中心部にある「Vahna」といわれるイベント会場で、元は1870年に建てられた大学の学生寮であった。現在のヘルシンキ大学(University of Helsinki)は、大学の世界ランキングで100位以内にランクされる有力大学であるが、フィンランドがスウェーデン領だった19世紀始めまで、前身のフィンランドで最初にして唯一の大学、王立トゥルク・アカデミーは西部の都市トゥルク(Turku)にあった。当時トゥルクはフィンランドの首都だったが、スウェーデンに替わって支配者になったロシアがスウェーデンの影響力を弱める目的で首都をトゥルクからヘルシンキに移し、大学もヘルシンキに移動させられた。


会場ホール

「ウィシケ」のメイン会場:100年以上前に建てられたこの建物は流石に風格がある。イベント会場としてはこじんまりしているがそれだけに親しみ易い雰囲気である

会場建物を入ると小さな入り口ホールがあり、催し物の受付があるが、それを通り過ぎてまっすぐ進むと大ホールがあり、そこがウイスキー・フェスティバル「ウィシケ」のメイン会場である。他のウイスキー・フェスティバルと同じく、出展各社は周囲の壁際とホール中央に島をつくってカウンターを設けている。出店したのは18社。こじんまりしたフェスティバルだったが、それでも一日目は500人、二日目は800人の入場者があり昨年より倍増。まずは順調な発展といえる。因みに、一般入場者の入場料は10ユーロ/人。試飲のウイスキーは一杯(10ml)あたり2-3ユーロであった。


バランタインのスタンド

「ウィシケ」のペルノー社のスタンド:バランタイン17年のボトルを持っているのはシーバス社のブランド・アンバサダー、イアン・ローガンさん。ペルノーのスタンドは、ハイランドの渓谷を流れる清冽な水がテーマである

サントリー・ボウモア・グループのスタンドの通路を挟んだ反対側がバランタインを含むペルノー・グループのカウンターであった。2005年のフランスのペルノー社による英アライド社の吸収合併で、ペルノーはプレミアム・スピリッツで世界第二位のグループに位置付けられるようになった。スコッチ・ウイスキー部門はバランタイン、シーバス、ザ・グレンリベットなど、アイリッシュ・ウイスキーは現在急成長しているジェームソンなど、スピリッツはビーフィーター・ジン,アブソリュート・ウオッカ、リキュールはカルーア、ティア・マリア、ペルノーなどの有力ブランドを持つ。

ペルノーのスタンドを仕切っていたのが同社のスコッチ・ウイスキー担当のブランド・アンバサダー、イアン・ローガンさん。この道20年以上のベテランである。偶然であるが、イアンは、ちょうど一週間後に日本のホテル・バーテンダーの「The Master of Ballantine’s」一行がスペイ・サイドの蒸溜所ツアーをした時の案内も担当してくれたので、参加された方々はご存知である。スコットランド男性によくある強壮頑健そのものの体躯の持ち主であるが、細かい気配りと正確な説明、ディナーでの「ハギスに献ず」(Address to a haggis)の朗読と儀式を執り行い、スコットランド文化を演出して好評だった。ロバート・バーンズのスコットランド特産料理ハギスを詠んだこの詩は、バーンズの生きていた18世紀のローランド英語で書かれていて難解だが、関心のある方は参考資料3で朗読を聴いてみてください。


ジャック・ダニエル

ジャック・ダニエルのコーナー:ジャック・ダニエルの像の隣の女性、クレア・キーンさんはモリソン・ボウモア社の北欧担当のセールス・マネジャーで、ボウモアやサントリー製品の拡売に活躍中。アイルランド出身の彼女はポーズからも分かるように明るくひょうきんな性格で人気がある。ジャックのおじさんも満更でない感じである

ヨーロッパのウイスキー・フェスティバルは、スコッチ・ウイスキーの存在感が圧倒的であるが、その中で大健闘しているのが日本のウイスキーと並んでテネシー・ウイスキーのジャック・ダニエルである。サントリー・ボウモア・グループの北欧地域の代理店アルティア・グループ(Alltia)がジャック・ダニエルの代理店もしている関係で、カウンターをシェアすることが多い。ジャック・ダニエルは、ヘルシンキではカウンターは共用しなかったが、すぐ隣に試飲コーナーを設けていた。

ジャック・ダニエルは通常の横長のカウンターは設けず、モノトーンのJack Daniel Distilleryの写真を背景にテネシー・ウイスキーの樽を立てて試飲台にし、横のベンチにはジャック・ダニエルの実物大の像が腰掛けているという簡素だがテネシーの雰囲気がよく出た演出であった。


マスター・クラス

サントリー・ウイスキーのマスター・クラス:締めは山崎18年で、‘フィンランドと日本の友好、全員の健康を祈念して’ Slanche!’

フェスティバルのもう一つのアトラクションは、ウイスキー各社のエキスパートによるマスター・クラスである。「ウィシケ」でもChivas, Diageo, Highland Park, Whyte & Mackay, Glenmorangieなどがマスター・クラスを開設した。マスター・クラスには、ウイスキーに特に関心の深い消費者が、追加の参加費を払ってきてくれるので、講師も参加者も真剣である。


ウイスキー化学の先駆者

長年、スウェーデンやロシアの支配下にあったフィンランドで、最もよく飲まれてきたアルコール飲料はウオッカであり、1950年代には総アルコール消費の70%を占めていた。その後の経済発展で飲料も多様化が進み、蒸溜酒の消費は30%くらいに低下している。フィンランドは、長年ウイスキーには馴染みが薄かったが、特筆すべきことが一つある。近代的ウイスキー研究の先駆者を生んだことである。

フィンランドのスオマライネン(Suomalainen)とニケーネン (Nykanen)は1960年台後半から1970年台にかけて当時の最新式の分析機器を使い、ウイスキーやブランデーに含まれる香気成分とその起源を特定した。彼らの優れた業績の中には、ウイスキー中に含まれる樽由来の特有成分の樫ラクトン(Oak Lactone)の同定や、ウイスキーの成分の多くが醗酵もろみ中の酵母の菌体に由来することを発見したことが含まれている。


参考資料
1.http://ecodb.net/ranking/imf_ngdpdpc.html
2.http://www.pernod-ricard.com/en/pages/3092/pernod/Group/House-of-Brands.html
3.http://www.bbc.co.uk/arts/robertburns/works/address_to_a_haggis/
4.http://www.eurocare.org/resources/country_profiles/finland
5.http://en.wikipedia.org/wiki/Cis-3-Methyl-4-octanolide