1.ジュニパー・べリー
恐縮ですが、まずお断りです。前80章と81章に続いて今回は「動力―3電力」をお届けする予定でしたが、リサーチに難航、もう少し時間が必要ですので今回と次回は「ロンドン・ジン」をお届けします。
1.ジュニパー・べリー
恐縮ですが、まずお断りです。前80章と81章に続いて今回は「動力―3電力」をお届けする予定でしたが、リサーチに難航、もう少し時間が必要ですので今回と次回は「ロンドン・ジン」をお届けします。
ロンドン・ジンの起源
2.英国王ウィリアムIII世:1688年の名誉革命でカトリックだった英国王ジェームズ二世を放逐しイングランドにおけるプロテスタン優位を確立した。フランスのルイ十四世の野望を押さえ、戦費調達の為に英国銀行を設立した。
http://www.bbc.co.uk/
ジンは、ジュニパー(杜松)というヒノキ科の針葉植物の実を、その他の草根木皮と混ぜてアルコールと一緒に蒸溜したホワイト・スピリッツである。蒸溜酒がスコットランドではウイスキーが、イングランドではジンが発展したのは何故か。その説明はまだ難しいが、一つは英国(スコットランドを含む)への蒸溜酒の伝達経路とその時期の違いによると思われる。
スコットランドの蒸溜技術は、アイルランドのカトリック宣教師が伝えたというのが定説で、時期は不明だがスコッチウイスキーに関する最古の文献が1494年に記されているので、それよりは相当以前と思われる。アイルランド、スコットランドと並んで、ウェールズでも中世期に蒸溜酒が作られたという記録があるので、ウイスキーのオリジンはケルトと言える。
これに対して、ジンはオランダからイングランドへ伝来した。オランダで13世紀から飲まれていたジンをイングランドへもたらしたのは、オランダがスペインからの独立を求めて戦った80年戦争でオランダを支援していたイギリス兵と言われている。その後、イングランドでジンが急速に広がったのは、1688年の名誉革命でオランダのオレンジ公が1689年にイングランド王ウイリアムス三世として即位し、1690年にはフランスからのブランデーの輸入を禁止、国産の蒸溜酒ジンの飲用を推奨したことが大きかった。
オランダから入ってきたジンは、スピリッツに種々の草根木皮と糖分を加えた甘味の強いものであったが、これは低劣な製造技術によるスピリッツの異味異臭を覆い隠すのが目的であった。現在のドライ・ジンが風味の良いドライなタイプに洗練されたのは、1830年にカフェーによる連続式蒸溜機の発明でクリーンなスピリッツが使えるようになってからである。今ではジンといえばドライ・ジンであるが、オールド・スタイルのジンは消滅したわけではなく、はるかに洗練された風味に改質されたTom Ginや Geneverとして多くのブランドが販売されている。
ジン・クレイズ(Gin craze)とトム・キャット
3.猫のジン販売機:客が猫の口に硬貨を入れると猫の左足の蛇口からジンが流れ出て来るので、客はそれを容器に受ける。自動販売機みたいだが、中で操作しているのは人間であった。Beefeater Visitor Centreの展示から作成
18世紀に入ると、ジンの飲用は急速に拡大した。1730年からの30年間は、ジン・クレイズ(狂気のジン時代)といわれ、人口が急増したロンドンの下層階級にあたかも疫病のように広がり、人々は麻薬中毒にかかったようにジンを求めた。当時のロンドンの人口は60万人くらいだったが、6-7000軒のドラム・ショップ(Drum shop=ジンを杯売りするバー)があり、多くが自家製のジンを売っていた。
当時のトム・ジンのレシピは驚愕ものである。アルコール、ジュニパーと砂糖に加えて、テルペン油、アーモンド油、硫酸、胡椒、生姜、インド・ツヅラフジ(cocculus indicus=殺虫剤で、魚を失神させせる効果がある。有毒だがアルコール飲料に加えると、アルコールの至酔に加えてめまいや頭が混乱するので強烈な‘キック’がある)、明礬、酒石等々、命の危険があるものが多く含まれていた。
このジンを飲んだのが貧民層で、特に、セント・ジャイルス(St.Giles)教会教区の周辺は、極貧、不潔、疫病、犯罪の巣窟だったが、それに加えてジンの過飲の影響で悲惨さを極めた。泣いたり騒いだりする子供を黙らせるには酔っぱらわせるのが手っ取り早いとジンを飲ませたので、1751年にはジン被害で死亡した子供が6000人に上ったという。
1725年から政府は何度も手を打った。ジンへの増税、免許販売制、路上でのジン販売の禁止、違反者への罰則の強化など数年おきに法律を改正したが、1737年の法律では不法にジンを売ったものを当局に密告すれば密告者には多額の褒賞をとらせるという条項もあった。
これにくじけず、ジンを売ったのがダッドリー・ブラッドストリート(Dudley Bradstreet)である。ブラッドストリートは、もともと不法なジン販売業者を当局に告げ口して賞金稼ぎをしていたが、‘ジン寄こせ暴動’も起こっていて身が危なくなり、密売側に河岸を変えた。彼は法律書を購入して数回も熟読、密告するには密売者の正確な氏名を書く必要があるという点に着目した。氏名が分からなければ密告することが出来ないので、名前が分からないようにジンを売れば良く、そのためにブラッドストリートが発明したのがトム・キャットであった。
ブラッドストリートが考案したのは猫の浮彫りで、これを道路に面した自宅の壁に取り付けた。これは単なる看板ではなく、ジンを飲みたい者が猫の口に硬貨を入れると、猫の足からジンが出されるという仕組みであった。
開店を告知出来ないのでビジネス初日に最初の客が来たのは3時間後であった。チャリンという硬貨が落ちる音がして客は言った、“おい、猫。2ペンス分のジンをくれ”。ブラッドストリートは、客にジンを蛇口で受けるように言いジンを計って注ぎ口に流し込んだ。その日の売り上げは約9千円、次の日は5万円、以降毎日の売り上げは10万円に及んだ。
家の前には、噂を聞いてジンを求める人の長い行列が絶えず、ブラッドストリートのビジネスは大当たりだったが、数ヶ月で苦境に陥る。ジンの違法販売の取締りにやってきた当局にはブラッドストリートはうまく対応したが、続々と猫真似をするものが現れて競争が激化、儲からなくなったのである。方々の通りや路地には猫販売機が置かれ、いたるところで客が、“猫、2ペンス分”と言って2ペンスを入れると、中から“ニャー”という鳴き声がしてジンが出てくるという風景が見られた。
ジン・レーンとジン狂気の終焉
4.ジン・レーン:絵の中央にはジンを飲んだくれて赤ん坊を放り掘り出している梅毒の売春婦、その右は栄養失調で骸骨のようになった男、背景には堕落と絶望の世界が描かれている。
1740年代、ジン被害はその極に達した。その悲惨な情景を描いたのが、ウイリアム・ホガース(William Hogarth)のジン・レーン(Gin Lane)である。1750年にプリントされたこのエッチングは、ジンを抑制し代わりにより健康的なビールを推奨した政府の意を受けているが、悲惨なジン・レーンと、健康的で幸せな生活を送っているビール・ストリートが対になって描かれた。
狂気のジン時代が終焉した決め手は1751年の「ジン法」である。貧しい市民の生活に必要なパン、チーズ、ビール、石炭のような日常品を売っている店はジンの販売は禁止、ジンを販売して良いパブは、店の賃料を10ポンド(今の価格て約30万円)以上払っている店に限る、何より効果的だったのはパブでの客への3万円以上の付け売りは法的に回収できない、となった事であった。貧困層にとってジンは手に入りにくくなり高くなりすぎた。彼等は昔のビールに戻っていった。
近代的ジン産業の誕生
18世紀の後半から19世紀の前半にかけて、ロンドンのジンは社会的に尊敬される産業に生まれ変わっていった。まともな会社が経営するようになったのである。18世紀から19世紀にかけて生まれたジン会社には、ニコルソン(Nicolson), ブース( Booth), ホワイト・サテン(White Satin), ゴードンズ(Gordon’s), シーガー・エヴァンス(Seager Evans),タンカレー( Tanqueray),ビーフイーター( Beefeater),ギルビー ズGilbey’s) があり、多くが今もブランドに名を留める。
ロンドンでジン蒸溜所が集中していたのが、クラーケンウェル(Clerkenwell)地区である。クラーケンウェルは、ロンドンの中央市場のスミスフィールド(Smithfield)から北へ1㎞ほど、well(井戸)の名が示すように良質の水があった。スミスフィールドには、ロンドンの巨大な胃袋を満たすべく、国内だけでなく、英国の世界の植民地から輸入された食料品や香料がテームズ川を遡って供給された。その中には、ジン原料の穀類や草根木皮もあった。
この立地を生かして、有力メーカーのゴードン、ニコルソン、ブースが蒸溜所を建てた。
ドライ・ジンの誕生とジン蒸溜所のロンドン離れ
5.旧ニコルソン蒸溜所跡:建物の後側の敷地をぐるっと取り囲むように建てられていて、往時の隆盛を偲ばせる。蒸溜所は1952年に閉鎖し、現在はオフィスや住宅に使われている
19世紀中頃から、ジンは以前の砂糖が入った甘いトム・ジンから次第に現在主流となっているドライ・ジンへ変わっていった。契機となったのは、カフェーによる連続式蒸溜機の発明で、クリーンなスピリッツが生産されるようになり、それ以前の粗雑なアルコールの異味異臭を砂糖でごまかす必要が無くなったからである。人々の嗜好もスイートからドライへ変化したし、20世紀に入ってからカクテルが人々の支持を得て隆盛するが、ドライ・ジンは多くのバーテンダーがカクテルのベースとして愛用した。
19世紀の大英帝国の絶頂期はロンドンも目覚ましく発展したが、その激しい流動の中でジン蒸溜所は一か所に定着出来ず、市内や市外、はては海外に移転していった。敷地の狭隘化、地価や人件費の高騰で、ロンドンの中心部でジンを作り続けるのは困難であった。古くからのジンの大手で、今でもロンドン市内で蒸溜所を操業しているのはビーフイーターだけになってしまった。ビーフイーター・ジンについては次回に詳述したい。
クラーケンウェルのジンの蒸溜所も安住できず、別の場所に移っていった。蒸溜所は取り壊されて跡地は転用されたが、一か所だけセント・ジョン通りのニコルソン蒸溜所の堂々たる建物が残っている。
スリー・ミル(Three Mill)
6.クロック・ミル:スリー・ミルにあったミル(製粉所)の一つで、時計台があることから名が付いた。最初は18世紀の建設。白い尖がり屋根は穀類を乾燥する乾燥塔の排気口、その右側の白い出っ張りは艀から穀類の袋を釣り上げるウインチである
2012年のロンドン夏季オリンピックは大成功だったが、そのメイン会場となったオリンピック・パークはロンドン東部、ストラトフォード(Stratford)に新設された。ストラトフォードは、ロンドンのイーストエンドの中でも最も荒廃した地域で、オリンピック・パークの建設はその地域を再開発する狙いもあった。
そのオリンピック・パークのすぐ南、ロンドンの中心部からは地下鉄のハンマースミス‐シティー線の東方面行に乗ると約30分でブロムリー ‐バイ ‐ロ‐(Bromley-by-Low)駅に着く。駅から徒歩数分、スリー・ミルというリー川の中に造られた人口島に着く。リー川、あるいはリー・ヴァレー(渓谷)は、テームズ川にそそぐ支流で、スリー・ミル周辺は12世紀頃からテームズ川の大きな干満を利用した水車が多くつくられ盛んに製粉が行われた。
写真のクロック・ミルの左側は、ミル・マスターが住んでいたハウス・ミルで、1776年に建てられた。ハウス・ミルでは、テームズ川の引き潮を利用して4台の水車で12台の石臼を駆動し製粉した。第二次大戦後のどさくさで、多くの金目の設備が持ち去られたが、建物は第一級の指定建造物の指定を受けている。ハウス・ミルとクロック・ミルで粉砕された穀類は、ロンドンの市場とこの地域に有ったいくつかの蒸溜所に供給された。
スリー・ミルとその周辺にあった蒸溜所の一つに、写真のクロック・ミルのすぐ右側にあったニコルソン・ジン蒸溜所がある。1952年に、クラーケンウェルから全ての生産設備をここへ移設したが、その蒸溜所も今は残っていない。現在、蒸溜所や貯蔵庫跡はイギリスで一番という規模の撮影所になっている。場内を見学させてもらったら、いくつかのジン蒸溜所の遺物が残されていた。
7.旧ニコルソン・スリー・ミル蒸溜所のジン・スティル:現在、旧蒸溜所はスリー・ミル・スタジオとして映画やTVの撮影に使われている。受付のすぐ奥は、コーヒー・ショップとレストランになっているが、一基の古いジン・スティルが歴史を語っていた。
スリー・ミルへ行ったのは誤認からで、実はここが19世紀にあったリー・ヴァレー・ウイスキー蒸溜所の跡地と思っていたのである。リー・ヴァレー・ウイスキー蒸溜所は、19世紀終わりころにアルフレッド・バーナードが訪問した四つのイングランドの蒸溜所の内の一つで、是非行きたかったところである。その後の調べで、リー・ヴァレー・ウイスキー蒸溜所はスリー・ミルからリー川を数㎞上流へ行った所にあったようだが、ロンドンの産業史のジャーナルによると全く何も残っていないという。
参考資料
1.London Gin. The Gin Craze. Thea Bennett, Gordon Guides Press Ltd, 2013
2.Gin. The Much Lamented Death of Madam Geneva. Patrick Dillon, Thistle Publishing, 2013
3.The Craft of Gin. Aaron J. Knoll&T. Smith, White Mule Press, 2013
4.http://www.ginvodka.org/
5.http://en.wikipedia.org/wiki/Gin
6.http://www.bbc.co.uk/history/people/william_iii_of_orange
7.http://www.aim25.ac.uk/cats/118/13466.htm
8.http://www.theclerkenwellpost.com/love-well/item/273-the-gin-craze