バーテンダーの髙木が人懐こい笑顔を見せ、『さあ、こちらへどうぞ』と言うかのように、両手を差しのべて迎えている。
憎めない男だ。歓待のこころが素直に伝わってきて、気持ちがいい。速見はテーブル席の絨毯を踏みしめながら店内奥に進み、船のデッキを想い起こさせるカウンター席へとまわり「二晩連続、また来てしまいました」と声をかけた。
「本日はおめでとうございます。こころ温まる素敵な披露宴だったとバンケットの担当の者から聞いております」
髙木はそう言うと、また笑顔を見せた。子供の頃はさぞかしヤンチャだっただろう、と思わせる面影を宿している。
「やっと、だな。やっと落ち着きました。四月の堺の風は清々しい。そう特別に感じられるほど順風満帆、晴れ晴れとした気分です」
アラフォーと呼ばれる年齢になって娘が嫁いだ親の気持ちを速見が吐露すると、髙木は「ほんとうにおめでとうございます」と神妙な顔で言ったのも束の間、「さて、今夜もウイスキーですね」と茶目っ気たっぷりに返してきた。
「昨日の夜と同じ、あのカクテルをつくってください」
「バランタイン17年ベースのロブ・ロイですね。かしこまりました。それよりもおひとりですか。よろしいんですか。二次会はまだつづいているでしょう」
「うん。家内は若い連中といるのが好きだけれど、わたしはひとりで飲むほうがいい。最初だけ顔を出して、ホテルに戻ってきちゃった」
ホテル・アゴーラ リージェンシー堺に泊まるのはこれで2回目となる。1回目は昨年夏、娘と結婚相手の彼氏、その両親とこのホテルの中国料理店で会食をし、1泊した。そして四月の今回はこのホテルで結婚披露宴をすることになり、連泊となった。
昨年夏、めったに気の利いた言葉を発しない娘からの「夜、一杯飲みたくなったらメインバーに行くといい」とのすすめもあって、疲れたという妻を部屋に残し、ひとりでフォースルのカウンター席に着いた。
相手をしてくれたのが髙木だった。そのときに、娘が彼氏とともに週に一度はこのバーを訪れていると知る。そしてふたりともウイスキーファンでほとんどのシングルモルトを試し、いまはブレンデッドに興味を向けていると言う。彼氏のほうはかなりマニアックな飲み手でもある。ただし酒に強いのは娘のほうらしく、「お父さん譲り」だとよく口にしているとも話してくれた。
これには少々驚かされた。
誰に似たのか、娘は幼い頃から自分の気持ちを強く表に出すことがなかった。遠足や運動会といった学校行事のスナップ写真は、いつも後ろのほうではにかんでいる絵面しかない。言葉少なく、目立つポジションには絶対に近づかない子供だった。
はじめて親に強い気持ちをぶつけたのは大学入試の時で、「工学部に進みたい」とぽつりと言った。歯科医という速見の仕事を継ぐ気がないことは承知していたが、驚いたのは大阪の大学を第一志望に挙げていたことだった。妻もわたしも当然、都内の大学に進学するものだと思い込んでいた。
妻の「なぜ、大阪なの」という問いに、娘は「面白そうだし、美味しい食べ物がいっぱいありそうだから」と拍子抜けする理由を述べ、それ以上話を聞き出すことはできなかった。
大学院まで進み、大手メーカーに技術研究者として就職する。以来、40歳になっても独り身で、工場のある堺で暮らしつづけてきた。そしてやっと同じ職場の技術者と結ばれることになった。
おとなし過ぎる娘だから、恋愛はできないかもしれない。お見合いさせてもひと言も発せず、時間が過ぎて行くだけだろう。ということは、結婚は無理か。妻も自分もほとんど娘の結婚を諦めていた。
相手も初婚と知ったとき、妻は「彼氏も無口だったりしてね。嫁入り道具に落語や漫才のCDでも持たせようかしら。ちょっとでも賑やかなほうがいいじゃない」と笑わせた。
「ウイスキーが好きな男性だから結婚するんだって、おっしゃっていましたよ。お父さんのように飲める人を探していた、と」
髙木のその言葉は速見にとって嬉しくもあったが、それよりも、そんな話をする娘に驚かされた。
「あの、変な質問をするけれども、うちの娘、喋るんですか。その、なんというか普通に、世間話ができるの」
「ええ、普通に。まあ、そんなにはいろいろなことをお話される訳ではありませんけれど。速見さんのお父様がバランタイン17年を愛飲されていらっしゃると、わたしが知っているくらいですから」
髙木が怪訝な口調でそう返してきたのを覚えている。
明日の夕方に東京に向けて帰るのだが、披露宴も終わり、次に堺に来るのはいつになるかわからない。昼間は堺の街を散策するつもりでいる。何も知らないので教えてくれ、と頼むと、髙木が快く応じた。
速見の堺についての知識は、仁徳天皇陵をはじめとした古墳群、室町時代の日明貿易、商都を運営する会合衆、そして茶聖、千利休といった歴史の教科書に載っている通り一遍のものだった。生まれも育ちも堺という髙木が散策コースをアドバイスしてくれ、いろんなエピソードを語ってくれた。将棋の坂田三吉、歌人の与謝野晶子も堺ゆかりの人物であることをはじめて知る。
バランタイン17年のオン・ザ・ロックを嘗めながら「あなたは、この街の広報官といった存在だね」と感謝の言葉を向けると、髙木はこう言った。
「このバーの名はフォースルです。帆船の前のほうにある帆のことで、この帆の向きで針路が決まります。バーテンダーもフォースルとなって、お客様によりよい情報、指針となるようなアドバイスをしなくてはいけません」
笑顔で語りながらも、口調はいままでになく真剣だった。バーテンダーとしてのプライドを感じさせる。
「素晴らしいですね。その姿勢を見習わなければ。長年、わたしは歯科医をしてきました。70歳になったら引退するつもりです。あと数年ですが、初心に戻って、患者さんのために尽くそうと思います。いい話をありがとう」
困ります。速見さんのような人生の大先輩がわたしのような若輩に何をおっしゃいます」
「いやいや、ほんとうだよ。それにね、いまさらだけど、娘に対して親としてのいいアドバイスを与えることができなかったと後悔すらしている。父親として何ができたのか。いいフォースルではなかった」
次にストレートを頼むと、髙木は速見が好むスコットランドの国花であるアザミをスタイリングしたグラスを用意した。おそらく、娘が前もってグラスの好みまで伝えていたに違いない。
「お嬢さんはお父様のことが大好きなご様子ですね。このカウンターでシングルモルトを2杯ほど飲まれると、あとは最後までバランタイン17年を飲まれます。リラックスされていて、とても楽しいお酒です。飲むスタイルをお嬢さんに真似される父親なんて、そんなにいないはずですよ」
「ファザコンだったとはね。あなたと出会わなかったら、死ぬまで気づかなかったかもしれない」
「たしかに、ファザコンかもしれません」
髙木がいたずらっぽく笑って、さらにつづけた。
「でも、素敵だと思います。バーテンダーとして、いい勉強をさせていただいています。名酒は、こうやって次の世代へと飲み継がれていくから名酒なんだと、気づかされました」
速見は安堵した。大阪の堺には、いいホテルバーがある。娘がもし日常に疲れ、辛くなったらここへくればいい。髙木の酒を飲めばいい。
順風をはらんだフォースルが、安らぎへと導いてくれるはずだ。
(第13回「四月の順風」了)
*この物語は、実在するホテル、ホテルバーおよびバーテンダー以外の登場人物はすべて架空であり、フィクションです。
登場人物
速見(歯科医師)
協力 ホテル・アゴーラ リージェンシー堺