Ballantine'sBallantine's

Menu/Close

稲富博士のスコッチノート

第101章 バランタイン・ウイスキーの話-その2.バークレー・マッキンレーからハイラム・ウォーカー(スコットランド)の時代

写真1.ダンバートン蒸溜所の全景:グラスゴーの西方約30㎞、クライド川との合流点近くのリーヴェン河畔にあるこのウイスキー製造の複合施設は、1938年から2002年までずっとバランタイン・ウイスキーの本拠地であり続けた。写真の左側はグレーンとモルトの蒸溜所、右の四角い建物は貯蔵庫とブレンド・瓶詰プラントが置かれていた。

バランタイン・ウイスキーの創始者、ジョージ・バランタインが1891年に亡くなってから、会社は二人の子息と一人の孫によって経営されたが、1919年にバークレー・マッキンレーに譲渡され、1935年にはカナディアン・ウイスキーの大手、ハイラム・ウォーカー社に渡った。本章では、1987年にアライド・ライオンズ傘下のアライド・ヴィントナーズに吸収合併されるまでの約95年間のバランタインの歴史を追った。

歴史的背景

19世紀終わり頃からの約70年は、世界を震撼させる大事件が起こった時代である。その中にあって、スコッチ・ウイスキー業界でも大きな出来事が相次いだ。概略する。

1899年。 パティソン事件(Pattison affair)が起こり、業界全体の危機を引き起こした。エジンバラのブレンダーのパティソン兄弟は、強気一方、相当あくどい商法で売り上げを伸ばしたが、資金繰りに窮して帳簿操作で切り抜けようとしたが倒産、多くの蒸溜所や関係会社が連鎖倒産に追い込まれた。兄弟は裁判で有罪となり服役刑に処せられた。

1908年。 王立委員会(Royal Commission)が、“ウイスキーとはなんぞや(グレーン・ウイスキーや、モルトとグレーン・ウイスキーをブレンドしたものはウイスキーか)を審議。翌年、グレーン・ウイスキーも、モルトとグレーンをブレンドしたものもウイスキーである、との結論となった。

1914年。第一次世界大戦が勃発。スコッチ・ウイスキーに、樽による最低2年の熟成を義務化した。最低貯蔵年数は、翌年から3年に延長された。

1920年―1933年。人類史上最大の社会実験と言われた悪法である禁酒法が、アメリカで施行された。ギャングが悪質なスピリッツや密輸品をSpeakeasy(もぐり酒場)で売った時代である。目的としたアルコール消費量の減少は達成できなかった。アメリカ政府の要請にも拘らず、イギリス政府はスコッチ・ウイスキーの輸出を制限せず、スコッチ・ウイスキーはカリブ海の小島へ送られ、そこから高速ボートでアメリカに密輸された。カナダも同じであり、カナダ産のウイスキーとスコッチ・ウイスキーは、カナダ経由でアメリカに輸出された。アメリカ国内で密造されたスピリッツが粗悪であったため、高品質のスコッチは人気を博し、リスクを辞さないマーチャントにとってはかつてない商機であった。

1929年―1933年。 大恐慌。スコッチ・ウイスキー業界は大打撃をうけた、1932年に操業していた蒸溜所はThe GlenlivetとGlen Grantだけだったという。

1939年―1945年。 第二次世界大戦。増税とドイツのU-ボートによる海上交通の遮断で穀物が輸入出来なくなり、1941年にはすべてのグレーン蒸溜所が休止、モルト蒸溜所も相次いで生産中止に追い込まれた。

1941年。 商船SS Politian座礁。イングランドのリバプールからジャマイカに向け出港したこの8,000トンの商船は、悪天候のためスコットランド西方のエリスケイ島で座礁、積み荷には大量のバランタイン・ウイスキーを含む28,000ケースのスコッチ・ウイスキーが積まれていた。その相当数が、近隣の島民に“救出”された。

1945年―1980年。 1945年に第二次世界大戦が終結。戦後、スコッチ・ウイスキーはアメリカ市場で人気を博し、ドルの稼ぎ手になった。イギリスが戦争中にアメリカから借りた借金の返済のためにアメリカ向け輸出が優先されたが、戦争中の生産制限から在庫が逼迫した。1960年から1970年までの10年間は蒸溜所の拡張、新蒸溜所の建設が相次ぎ大ブームであった。

1980年-1990年。 ウイスキー・スランプの時代となり、スコッチ・ウイスキーの蒸溜量が急減した。1970年代は販売好調で、将来への楽観的な見方から生産は拡大、原酒在庫も急増したが、1980年に入り過剰在庫の懸念から生産は急減した。在庫調整が終わり、生産が回復するまで10年近くを要した。

1982年。 バランタインのキルマリッド・ボトリング・プラント完成。ヨーロッパで最先端のブレンド・ボトリング工場であった。

1987年。 ハイラムウォーカー社は、アライド・ヴィントナー社に吸収合併された。

バランタイン家による経営の終焉

写真2.バークレー(左)とマッキンレー(右)。1922年にバランタインを引き継いだ時、二人はまだ30代だったがすでにいくつかのウイスキー会社を所有し、事業意欲にあふれたビジネスマンであった。写真提供:ペルノ・リカール社

1891年に、バランタインの創業者、ジョージ・バランタインが亡くなった後、事業は長男のアーチバルド、3男のジョージ(ジュニア)、アーチバルドの子で初代ジョージの孫にあたるジョージ(三世)が引き継ぎ、事業は順調であった。1895年には、ビクトリア女王から英王室御用達の勅許状を与えられ、また同年エジンバラの目抜き通り、プリンセス・ストリートに出店した。国立美術館やスコテッシュ・アカデミーの正面に位置し、この通りの最中心部である。この店は1938年まで続いた。

1900年に入ると、一家は後継者の問題を考えざるを得なくなった。アーチバルドとジョージ(ジュニア)は50の半ばを越え、ジョージ(三世)は拡大した事業を任せるには若すぎた。事業環境は激しく変わっており、海外市場の開拓は、ジョニー・ウォーカー、ブキャナンやホワイト・ホースに遅れを取っていた。一家は、バランタインの事業をバークレー・マッキンレーに売却することにした。1919年にグラスゴーの、1922年にはエジンバラのバランタインを譲り渡した。バランタインの伝記(未出版)を書いたウイスキー作家のヘレン・アーサーは、書の結びでこう書いた。「エジンバラのバランタインを預かっていた初代ジョージの孫のジョージ(三世)は、もう再び来ることのないオフィスを出る時、天にいる祖父に向かって言った、“おじいさん、一家で経営していけなくて申し訳ありません。でも、今回の処置が、おじいさんが築いたバランタインのブランドを守り、発展させてゆく最善の方法であると思っています。どうぞ分かってください”と。」

実際、その通りであった。会社を引き継いだバークレーとマッキンレーの二人組は、バランタインのブランド価値を認め、発展させることに全力を尽くした。性格や得手する所が異なる二人は、良い補完関係にあった。いつも紳士然としたマッキンレーは、ウイスキーやワインの造詣が深く、バランタインの品質の守護者としてうってつけであった。

一方、バークレーは、モルト蒸溜所の出身で、最初の仕事は、蒸溜所の事務所の小間使いであったが、果敢な営業マンとなり、市場を広げる為ならリスクを恐れず何処にでも出かけていった。バークレーが出かけていったのは、禁酒法下のアメリカとカナダである。バランタイン・ウイスキーをスコットランドからカリブ海やカナダへ入れ、そこからアメリカへ送り込んだ。アメリカへウイスキーを密輸することは、アメリカの沿岸警備隊による拿捕、ライバルの業者との確執やアメリカの非合法で非常に危険な取引先などの難関が待ち受けていて、何度も身の危険を冒した。

バークレーはもう一つ、後のバランタインの発展にとって特筆すべき成果を残した。ハイラム・ウォーカー社とのコミュニケーションである。ハイラム・ウォーカー社の発祥は、1853年にハイラム・ウォーカー氏が、デトロイトの南を流れるデトロイト川のカナダ側にあるウインザーに土地を買い、今のカナディアン・クラブの製造を始めた時に遡る。だが、1926年にハリー・ハッチ氏が率いるカナダ第一の蒸溜会社、グッダム アンド ワーツ (Gooderham and Worts)社にハイラム・ウォーカー社は買収された。ハッチは、スコッチ・ウイスキーへの進出にも手を付けていて、すでにある優良ブランドを手に入れていたが、本格的な進出の為に更なる優良ブランドと生産設備を手に入れる必要があった。ハッチにとって、バークレーから得ていたバランタインの情報は魅力的で、早速買収の申し込みをした。バークレーは、自分が1919年にバランタインを買収した時を思い出したに違いなく、自身の利益だけでなく、ブランドの発展にとっても悪い話ではないので、1935年にハイラム・ウォーカー社にバランタインを譲り渡した。

グレンバーギーとミルトンダフ蒸溜所

バークレーはバランタイン社を売り渡した後も会社に残り、ハイラム・ウォーカーのスコッチ・ウイスキー事業を手伝う為スコットランドへ戻った。バークレーの最初の仕事は、バランタイン・ウイスキーの自前の生産基盤を強化することで、1936年に長年バランタイン・ウイスキーのブレンドの中核であったグレンバーギーとミルトンダフの2つの蒸溜所を買収することに成功した。

写真3.グレンバーギー蒸溜所の蒸溜室:この写真は1955年の蒸溜室であるが、ハイラム・ウォーカーが購入した1936年から変わっていない。初溜釜と再溜釜各一基、加熱は石炭の直火炊きであった。写真提供:ペルノ・リカール社

グレンバーギー蒸溜所の起源は、一説によると1810年に遡り、スペイサイドの多くの蒸溜所の中でも、最も古い蒸溜所の一つであると言われているが、確認されているのは1829年からである。歴史の荒波の中で何度も盛衰を経たが、1936年当時のオーナーは近郊のウイスキーの都と言われたエルギンのある団体であり、蒸溜所長は女性だった。スコッチ・ウイスキー業界で最初の女性マネジャーと言われている。

現在、ミルトンダフ蒸溜所が建っている場所は、16世紀終わり頃まで、西へ数㎞のプラスカーデン修道院(Pluscarden Abbey)の粉挽き小屋があったところである。周辺は、何世紀にも亘って密造が盛んであった。現在のミルトンダフ蒸溜所のあるミルトン農場でも長年密造が行われていたが、1824年には正規の免許を取得した。

ミルトンダフ蒸溜所の仕込水は、蒸溜所のすぐ横を流れているブラック・バーン(Black Burn)の水である。直訳すると“黒川”で、ピート層を潜り抜けてきた水を集めて流れているだけに、字の通り黒ずんで見える。

写真4.ミルトンダフ蒸溜所とブラック・バーン:言い伝えによると、新年には上流にあるプラスカーデン修道院の僧が石の上に跪き、流れる水を祝福してビールを仕込んだという。

ハイラム・ウォーカー傘下に入ってすぐにグレンバーギーとミルトンダフ両蒸溜所ともフル操業に入った。ハッチのバランタイン・ウイスキーの将来についての確信は揺るがなかった。

ダンバートン蒸溜所

写真5. ダンバートン・グレーン・ウイスキー蒸溜プラントのコントロール・パネル:建設当時、ヨーロッパ最大であり、当時の技術の粋を尽くしたものであった。写真は1980年代のものだが、ダンバートン蒸溜所は建設時から閉鎖される2002年までほとんど変わらなかったと言われている。写真提供:ペルノ・リカール社

ブレンデッド・ウイスキーのバランタインには、グレーン・ウイスキーも必要である。ハイラム・ウォーカーのハッチは、グレーン・ウイスキーを最大手のDCLから供給を受けるべく、交渉の為にDCLのトップ、ウィリアム・ロスを事務所に訪ねた。ロスは強力な競合相手にグレーンを供給することを躊躇したこともあったのだろうが、遠来のハッチを長時間待たせたという。待っている間にハッチの心は決まった。ロスとの面談は、グレーン・ウイスキー供給の交渉から、自前でグレーン・ウイスキー蒸溜所を建設することにした、という通告の場になった。

1937年、ジョージ・バランタイン社は、ハイラム・ウォーカー(スコットランド)社となった。同年、ダンバートン蒸溜所の建設がはじまる。ダンバートン蒸溜所は、グレーンの蒸溜所だけでなく、モルト蒸溜所(後にローモンド・スティルの一号機が導入されたインヴァーリーヴェン蒸溜所である)、ウイスキーの貯蔵庫、ブレンド施設と瓶詰め工場も含む複合施設であった。

基幹となるグレーン蒸溜所は、伝統的なスコッチ・グレーン・ウイスキーとは異なる。赤レンガの外観からして、カナダのハイラム・ウォーカー本社工場と同じ雰囲気を漂わせ、製法もカナディアン・ウイスキーの工程を踏襲した。独自のロータリー・ディスク濾過機を通した濾過醪を発酵させ、連続式蒸溜機はスコッチ・ウイスキーが用いていた角形のカフェー・スティルではなく、アメリカのシンシナティ―で設計された丸型の塔であった。

ハイラム・ウォーカー(スコットランド)は、モルト・ウイスキーの生産の能力も拡充していった。1954年にScapa蒸溜所とGlencadam蒸溜所、1955年にはPultney蒸溜所、1970年にBalblair蒸溜所、そして1976年にはArdbeg蒸溜所を買収し、モルト・ウイスキーの生産力を高めていった。

モルトやグレーンの生産だけでなく、ブレンドと瓶詰めの増強も必要だった。ダンバートンが手狭になってきたためである。1977年に、ダンバートンの北、数㎞のキルマリッド(Kilmalid)に、まずブレンドの施設、1982年には瓶詰工場を建設した。これで、原酒の払い出しから、ブレンド、瓶詰、製品倉庫、出荷までを効率良く一貫して行えるようになった。コンピューターによるシステム化や無人の自動倉庫など、当時世界最先端を行くボトリング・プラントであった。当初の生産能力は400万ケースであったが、現在はその数倍に上っている。

成長を支えた人々

バランタインの発展の原動力となったのは何と言っても人である。第二次世界大戦後の躍進を支えたマネージメント・チームの写真がある。

写真6.1960年代のハイラム・ウォーカー・スコットランド社の経営陣:左から社長のトム・スコット、営業担当役員スティーブ・マッキャン、モルト蒸溜所管轄のマネジャーのビル・クレイグ、生産担当役員アリスター・カニンガム各氏

写真のビル・クレイグは、ハイラム・ウォーカーがミルトンダフ蒸溜所を買収した時の蒸溜所長である。クレイグ一家は根っからのウイスキー屋で、後に彼の息子のビル・クレイグも同じ仕事を継承し、現在孫がミルトンダフで働いている。

トム・スコットは、1949年から1969年まで社長を務め、“ミスター・バランタイン”と尊称された。スティーブ・マッキャンはスコットの後、社長となり1971年には会長になって社長はアリスター・カニンガムが引き継いでいる。技術者であるカニンガムは、ローモンド・スティルの開発者で(本スコッチノート第97章をご参照ください)、ミルトンダフ蒸溜所へ導入したローモンド・スティルで蒸溜されたモルト・ウイスキーに、当時ミルトンダフの所長だった2代目のクレイグの名前をとってグレン・クレイグと名付けた。グレン・クレイグは、人名がついた唯一のシングル・モルトである。カニンガムはキルマリッドのブレンド・ボトリング・プラントの建設という大きな功績を残し、1992年には引退している。

ガチョウ

人以外もバランタインの発展に貢献した。ダンバートン蒸溜所の東、ダンバック(Dunback) に大きなウイスキー貯蔵庫群がある。そこの警備を任されたのが支那ガチョウの一群である。見知らぬ人物が近づくと大声でガーガー鳴き喚くので、それが聞こえるとすぐ警察に通報するという仕組みであった。

写真7.ダンバートン、ダンバックのガチョウ:1959年に導入され2012年にCCTVカメラ切り替えられた。最後に残っていた一群は“引退”し、グラスゴー東部のクライド河畔にある公園、グラスゴー・グリーンにいた別の群に加わった。

奇しくも、ダンバートンからやって来たガチョウのいるグラスゴー・グリーンの川の対岸には、2002年に閉鎖されたダンバートン蒸溜所に替わってバランタイン・ブレンドのグレーン・ウイスキーを生産しているストラスクライド蒸溜所がある。

ガチョウは、ウイスキーの監視以外に、バランタイン ウイスキーのシンボルとなりそのブランド構築に大きな働きをした。世界中から多くのウイスキー・ファンがガチョウを見にやってきた。バランタインの宣伝物のネクタイ、スカーフやバッジに使われ、ダンバートン市の名所案内にも載った。ガチョウの世話は大変だが、居なくなったのはなんとなく寂しい思いがする。

参考資料
1. Mantle, Jonathan.The Ballantine Story、George Ballantine & Son Ltd, 1991.
2. Nown, Graham. The Scotch, Allied Distillers Limited, 1996.
3. Arthur, Helen. BALLANTINE’S – THROUGH THE EYES OF GEORGE The life of George Ballantine by Helen Arthur, Draft of the unpublished book in Chivas Brothers Archive, 2012.Arthur, Draft of the unpublished book in Chivas Brothers Archive, 2012.
4. MacLean, Charles. malt whisky, Mitchell Beazley, 2006.
5. http://www.dailyrecord.co.uk/news/local-news/special-feature-sad-day-dumbarton-9736446
6. http://www.packaging-gateway.com/projects/chivas-brothers/
7. http://www.dailyrecord.co.uk/news/local-news/dumbarton-distillery-geese-given-matching-2557564