写真1. ブレア城:歴代スコットランド貴族マレー家の居城である。城の歴史は13世紀中頃に遡るが、最終現在の形になったのは1870年代である。1844年にはヴィクトリア女王と夫のアルバート公が、1921年には皇太子時代の昭和天皇が滞在された。
グラスゴーから車でやや東北にパースを過ぎてから40分ほどでピットロッホリーという町に着く。現在の人口は3,000人弱でやや高齢化が進んでいるが、観光地としての人気は高く活気がある。町は、丁度スコットランドの真中に位置し、タメル川(River Tummel)に沿っていて、パースから北部ハイランドへ抜ける要所にある。
多くの山々(Ben)、湖(Loch)と渓谷(Glen)が織りなす入り組んだ地形は、ハーミタージュ(Hermitage)の滝と森、タメル湖を一望するクイーンズ・ヴューの景観、すぐ南の古都ダンケルドや北のブレア城の歴史遺産、二つの古い蒸溜所等の見どころが多い。野外スポーツの愛好家には山歩き、カヌー、釣り、ゴルフ等も魅力である。
ピットロッホリーの北約12㎞のアソール(Atholl)にある。17世紀から歴代マレー(Murray)クランのチーフ(家長)の居城である。マレーの先祖は12世紀まで遡るが、Atholl伯爵の地位を得たのは1629年、貴族としての最高位の公爵(Duke)には、1703年に時の英国女王のAnneから叙せられている。因みに、現在のスコットランドの貴族の序列は、最高位は英国女王、次いでロセセイ(Rothesay)公爵のチャールズ皇太子、その下に公爵が7名、侯爵(Marquess)が5名、伯爵(Earl)が45名、子爵(Viscount)が3名、ロード・オブ・パーリアメント(Lord of Parliament)が14名である。
現在まで12代を数えるアソール公爵家の歴史は平坦ではなかった。ヨーロッパと英国内の戦乱と世襲の問題で混乱した。1688年にスコットランド、イングランド、アイルランドの国王だったスコットランドのステュアート王朝のジェームス7世(イングランドのジェームス2世)が英国を追われ、翌年にはオランダのウイリアム3世と妻のメアリーが王位に就いた名誉革命が起こっている。イングランドの貴族によって、自分達独自の王朝が消滅させられたスコットランドではジャコバイトが何度も蜂起し、1746年に英国の最後の内戦といわれるカロードンの戦に敗れるまで独立戦争の時代が続いた。
爵位の継承もすんなりとは行かなかった。スコットランドの貴族の身分は終身制で、次代への継承はルールで定められている。原則は「初代直系の男系男子」で貴族の長子が継承するが、長子がいない場合にはルールに従って後継者が決まる。マレー家も、公爵自身が未婚のままで死去したり(第5代、第10代)、結婚しても男子が生まれない(第2代、第8代)、生まれた男子が早死(初代)等の問題に見舞われている。
写真2. 初代アソール公爵ジョン・マレー(1660-1724):父親の初代アソール侯爵の後を継いで第2代アソール侯爵、後に公爵。スコットランド王室の議会代表、王室の御璽官、セント・アンドリューズ大学総長などを歴任した。
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https://en.wikipedia.org/wiki/John_Murray,_1st_Duke_of_Atholl
特に、初代アソール公爵(ジョン)から第3代(ジョン)までは、ヨーロッパと英国内の内戦の影響もあり、劇的な経過をたどった。初代のアソール公爵は、最初の妃との間に6人の男子をもうけたが2人は若死にし、跡を継ぐべき長兄(ジョン)はスペインの王位継承戦争のマルプラケ(Malplaquet)の戦いで戦死した。初代公爵はオレンジ公の英政府を支持したが、彼の懸念にも関わらず息子の2人はジャコバイトに加担した。ジャコバイトに加わった次男のウイリアムは反乱罪で爵位継承権をはく奪され、1746年ロンドン塔で死亡、第2代のアソール公を継承したのは3男のジェームスであった。5男のジョージはジャコバイトの司令官としてカロードンで政府軍と戦い、敗れて後オランダへ亡命してその地で亡くなっている。ジョージの指揮官としての有能さは良く知られていて、スコットランド軍の指揮をボニー・プリンスでなくジョージにまかせていたらスコットランド軍が勝っていたかもしれないと言われるほどであったが、この話はいささか判官贔屓の感がなくは無い。
第2代のジェームス公爵には男子が生まれなかったので、第3代公爵は、このジョージの息子でジェームスの甥のジョンが叙任された。反政府軍の指揮官で、捕まれば間違いなく死罪となるジョージだが、なぜその子息が公爵に任じられたのか良く分からないが、英貴族院はジョンを正当な後継者として認めた。しかながら、この第3代のジョンは精神的錯乱からテイ川に身を投げてわずか45才で死亡している。後の第4代公爵には第3代ジョンの長男のジョンが就任し、以後第9代まで直系男子がいない場合は、甥や兄弟が継いできたが、第9代には子供がいなかった為、第10代公爵には100年以上も遡った第3代公爵の末裔、イアン・マレーが就任した。
イアンは、イートンからオックスフォード大卒を出てピットロッホリー地域の観光開発に努め現在の盛況の礎を固め、1966年には休止していたアソール・ハイランダーを復活させた。現在、隊員は200名だそうだが、この時の写真を見ると敬礼している公爵イアンの前を行進している隊員はわずか6名である。英国国会の貴族院では保守派の論客で知られ、いくつかの会社の経営にも携わっていた。有能な公爵だったが、イアン(Iain)も生涯独身で、第11代には同じく第3代公爵の末裔で南アフリカ在住の遠縁の従兄が継ぎ、第11代が亡くなった後、現在の第12代アソール公爵は彼の息子が継承している。
しかしながら、南アフリカの第11代も12代も陽光溢れる南アフリカから、寒冷・暗湿なスコットランドへ移住する気はなく、大事なイベントの時だけブレア城にやってくるのだが、それでは今も残る城や広大なエステート、昔からの一族郎党、儀仗兵とは言え世界でも唯一とされる私兵のアソール・ハイランダーを纏めて経営して行くことは無理な話で、この辺りの事情を察していたイアンは、慈善団体のトラストを立ち上げ、お城を含むほぼ全てのエステートをこのトラストに寄付してしまったのである。これが発表されたのは、亡くなる前日であった。第10代公爵の願いは、爵位の継承よりこの歴史、文化、自然が一体となったアソール・エステートをスコットランドの社会遺産としてそのままの姿で継続することであった。従って、現在のアソール公は公爵の爵位はあってもエステートを持たず居所はブレア城ではない。
写真3. 第10代アソール侯爵Iain Murray氏(1931-1996:’Wee Iain(ちびのイアン)’と愛称されていたが、195cmの長身だった。ブレア城とアソール・エステートの大半を慈善団体に寄付する英断を下した。
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アソール・エステートは、全面積約582㎢で東京都の27%の面積がある。内訳は農地が35%、森林が10%、ムア・ランド(荒地)が54%、その他1%である。慈善団体とはいってもエステートは経営して行かなければならず、アソール・エステートは、観光、農業、林業、ムア・ランド・マネージメント、不動産業(賃貸と開発)、発電の6つの事業を行っている。
観光の中心はブレア城で、城内や広大な庭園の見学に年間10数万人が訪れる。城内には120以上の居室があるそうだが、その中で中心となっている約30室が見学できる。入口のホールはカロードンの戦いで使われた盾、銃剣付先込式の歩兵銃や剣が展示され、応接間はスコットランドの中で最も素晴らしいものの一つと言われ、由緒ある家具が多い。
写真4. ブレア城の食堂:すっきりしたデザインで壁のプラスターが有名である。歴代、この食堂で催された貴族の晩餐会に招かれた貴賓、食事のメニュー、又どのような会話がされたのか興味が尽きない。
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食堂は開催されたディナーの記録は整理されていないようだが、ブレア城に保管されている古文書や資料は膨大なもので全て解読されているわけではないのでその内に発見されるだろうと想像している。ディナーのアペリティフや食事中、あるいは食後にウイスキーが出されたことも興味あるところであるがこれも不明であるが、収蔵品の中に小さなポット・スティルがあるそうである。
見学の最後がボール・ルームで、1876年の建設である。220名までの晩餐会が可能で、個人の結婚式、会社や団体の催しに利用できる。スコッチウイスキー関係では、スコッチウイスキーへの情熱を持ち大きな貢献をしてきた人々の国際的な協会のキーパー・オブ・ザ・クエイヒ(Keeper of the Quaich)の年2回の晩餐会もこのボール・ルームで開かれている。(本ホーム・ページ第69章「キーパーズ・オブ・ザ・クエイヒ」をご参照ください。)尚、城内で写真撮影が許されているのはこのボール・ルームだけである。ステージの後ろには稀代のフィドラーといわれ、第2代から第5代公爵と親密だったニール・ガウの肖像画と、彼が使った椅子とフィドルが展示されている。(本ホーム・ページ第71章の「ニール・ガウ」をご参照ください。)
写真5. ブレア城のボール・ルーム:壁の上部は、エステートの荒野や鹿園で集められた雄鹿のアントラー(Antler=枝角)で飾られ、下半分はウッド・パネルに歴代何人かの公爵の肖像画が懸けられている。
城内の見学後、広大な庭園と今は廃墟になっているがセント・ブライド教会を回った。この廃墟には1689年にブレア・アソールから2マイル南のキリークランキー(Killiecrankie)でジャコバイト軍を率いて政府軍と戦い、勝利は収めたが自らは戦死したカリスマ的リーダー初代ダンディー子爵が葬られている。
ちょうど正午前にお城の前の広場に戻ってきた時である。Scottish Maltsという標識を付けた車が次々を入ってきた。車は全て明らかにクラシック・カーである。車を降りたドライバーに聞くと、HERO(Historic Endurance Rallying Organization、クラシック・カーの耐久レース協会と訳したら良いのかな)が主催するクラシック・カーのラリーの一つで、Scottish Maltsと命名した今回のイベントは、パース近くの5つ星ホテルのグレンイーグルス・ホテルを出発、ハイランドの風景を楽しみながらモルト蒸溜所を巡る5日間のラリーで、ヨーロッパ各地で開催されているラリーの中でも人気が高いそうである。全参加台数は約80台、ブレア城には昼食に寄ったとのことであった。ナビゲータや主催者側の要員も入れると200人近くになるので、昼食の場所はボール・ルームである。
写真6. Scottish Maltsの標識を付けた参加車:この車の正確な登録年度は分からないが、ナンバー・プレートを途中で付け替えていなければ1963年以前の登録である。既に55年を経過している。
私はカーマニアではないので良く知らないが、中でも目立った車は1924年製のベントレー3/4.5モデルである。製造からもう90年以上経っているが一日300㎞のラリーをこなし堂々と上位に付けていうのは流石往年の王者である。
写真7. Scottish Maltsラリー参加のベントレー3/4.5モデル:ブレア城の広場に集まった80台の参加車の中で、この1924年製造のベントレーは威風辺りを祓う迫力であった。
ラリーの終着はグレンイーグルス・ホテルで、そこでスコアが集計され、表彰式とシャンパンのディナーになる。費用は分からないがクラシック・カーでモルト蒸溜所を回るという洒落た贅沢が出来る人はいるものである。唯一の難は折角蒸溜所へ行っても試飲ができないことである。