写真1.ダンダラック・ホテル:1860年に、あるワイン・マーチャントが別荘として建てた。夏目漱石が滞在した当時は弁護士のディクソン氏の私邸であった。現在は瀟洒なホテルである。
写真1.ダンダラック・ホテル:1860年に、あるワイン・マーチャントが別荘として建てた。夏目漱石が滞在した当時は弁護士のディクソン氏の私邸であった。現在は瀟洒なホテルである。
ピットロッホリーの秋
「ピトロクリの谷は秋の真下にある。十月の日が、目に入る野と林を暖かい色に染めた中に、人は寝たりおきたりしている。」という書き出しで始まるのは、漱石の短編集「永日小品」の中の「昔」と題された一遍である。1900年10月に、文部省から英語教育法研究の為にロンドンに派遣された漱石であったが、ロンドンでの過酷な学習や生活にも馴染めず、本人の神経質な性格もあって極度の神経衰弱に陥っていたことはよく知られている。1900年といえば日露戦争の3年以上前であり、当時の英国で日本や日本人の評価も低く、漱石は後に、「余は英国紳士の間にあって、狼群に伍する一匹のむく犬のごとく、あわれなる生活を営みたり」と述べているように、異文化の中で家族と離れた孤独な独身生活、資金不足などの重圧に拉がれたロンドン生活であった。
写真2.ダンダラック・ホテルの通路の壁に掛かっている漱石を記念する品々:左から美人画、英訳の「昔」、漱石の写真、Japanese Gardenと題された水彩画である。
その漱石が帰国する1902年12月の直前の10月に、ピットロッホリーのダンダラック(Dundarach)邸の主人、ジョン・ヘンリー・ディクソン氏から招待を受けこの地に2週間ほど滞在した。ロンドンからピットロッホリーまでどのように旅したか不明だが、例えば、ロンドンのキングス・クロスからエジンバラまで、かの有名な特急列車のフライング・スコッツマンでも8時間15分を要し、その先エジンバラからピットロッホリーまでさらに2、3時間は必要だったと思われる。長旅だったが、ロンドンと異なり、ピットロッホリーの秋の静寂の中で漱石は非常にハッピーであった。
なぜ漱石はダンダラック邸の主人のディクソンから招待を受けたかよく分からないが、多胡吉郎氏の著作に拠ると、ディクソンはイングランド人の弁護士だったが、日本の水彩画に興味があり、何度か日本を訪問し相当数のコレクションもしていたし、当時の日本芸術界の重鎮であった岡倉天心とも親交があった。漱石がロンドンに滞在していた時に、天心の弟の岡倉由三郎と知り合い、彼が兄の天心を通じてもらったディクソンの招待状を神経衰弱の漱石を見かねて、転地療養のためにピットロッホリーに行くことを勧めたとある。ディクソンは日本美術に関して講演が出来るほどの造詣があり、漱石も美術の理解が深かったので、漱石のダンダラック邸の滞在期間中二人はよく話が合ったという。
写真3.漱石がダンダラックハウスから眺めたピトロクリの谷。画面中央左にタメル川とアルダウアー橋が見える。
「昔」の、「足元は丘がピトロクリの谷へ落ち込んで、目の届く遥の下が、平たく色で埋まっている。その向こう側の山へ上る所は層々と樺の黄葉が段々に重なり合って、濃淡の坂が幾段となく出来ている。明らかで寂びた調子が谷一面に反射して来る真中を、黒い筋が蜿って動いている。泥炭を含んだ渓水は染粉を溶いたように古びた色になる。この山奥に来て始めて、こんな流れをみた。」という部分は、漱石がダンダラック・ホテルの南側に立って南方を眺めた風景の描写である。
写真4.タメル川の秋色:漱石の「向こう側の山へ登るところ」をアルダウアー橋から見たところ。スコットランドの秋色はほとんどが黄葉であるが壮大で美しい。
漱石と同じ場所に立ってピトロクリの谷を眺めてみた。好天だったが、生憎太陽が真南の逆光で、漱石が写実した「向こう側の山へ登るところの層々と樺の黄葉が段々に重なりあった」ところはよく見えなかったので、少し歩いてタメル川下流のアルダウアー橋の上から撮ったのが写真4である。この橋が架けられたのは1949年なので、漱石はこの橋は見ていない。橋の上からは漱石の描写通りに見事な秋の黄葉が見られた。漱石が訪れてから115年を経ているので、植生も変わっていると思われるが、現在の風景もそれほど大きく変わっていない印象を受ける。
漱石は、タメル川の水を見て、「泥炭を含んだ渓水は染粉を溶いたように古びた色になる。この山奥に来て始めて、こんな流れをみた」、と感嘆している。この泥炭はピートで、ピート層を通り抜けて谷に流れ落ちてきた水は茶褐色をしている。自分も、もう数十年前に初めて茶褐色の川水を見た時は信じられず、川底の色だろうと思っていたが、実際に水を汲んでみて水自体が茶褐色なのに驚いた経験がある。この茶褐色の成分は、水蘚や草木が堆積して何千年もかけてピートが出来るときに分解して生成するフミン酸である。以前はこのフミン酸を含む茶褐色の水はピーティー・ウォーターと言われ、モルト・ウイスキーのピーティーとかスモーキーな風味の元と考えられていたが、その後の研究で、ピーティー、スモーキーはあくまで麦芽の乾燥時に焚くピートの燻煙に由来し、仕込水が茶褐色であることと、その水で仕込んだウイスキーがピーティー、スモーキーであることは関係がないことが確かめられている。
漱石は、風景だけでなく、スコットランドの衣装にも関心を示している。ダンダラック・ハウスの南側の斜面の小道を川に向かって降りて行くのであるが、その時の情景をこう記している。「後ろから主人が来た。主人の髭は十月の日に照らされて、七分がた白くなりかけた。形装も尋常ではない。腰にキルトというものを着けている。俥の膝掛の様に荒い縞の織物である。それを、行灯袴に膝頭まで裁って、縦に襞を置いたから、脹脛は太い毛糸の靴足袋で隠すばかりである。歩く度にキルトの襞が揺れて、膝と股の間がちらちら出る。肉の色に恥を置かぬ昔の袴である」。主人のディクソンはイングランド人であったが、スコットランドが好きで居を構え、自身もスコットランド人に成りきる気構えであったことが分かる。尚、スコットランド人の謎の一つは、キルトの下には何を着ているか、である。
漱石は、10月半ばまでダンダラックに滞在した後ロンドンへ戻り、12月5日にロンドンを出帆、翌年の1月20日に長崎に着いている。ロンドンでは心を病んでいた漱石が、ハイランドの小村だったピットロッホリーの自然や人に触れて癒され、無事日本まで帰り着いたのはなんとなくほっとする話である。漱石にピットロッホリー行きを勧めた岡倉由三郎と、漱石を暖かく受け入れてくれたディクソン氏のおかげと言っていい。
漱石とウイスキー
ピットロッホリーには、二つのモルト蒸溜所がある。町の東の端にあるブレア・アソール(Blair Athol)蒸溜所と、町から東北東へ数㎞の小さな谷にあるエドラダワー(Edradour)蒸溜所である。ピットロッホリー滞在中の漱石が、スコットランド文化の粋とも言うべきウイスキーにも興味をもち、蒸溜所を訪問してシングル・モルトを飲んでその感想を残してくれていれば素晴らしいのだが、残念ながらその記録はない。前述の多胡氏もその思いで、記録はないが漱石がシングル・モルトを飲んだ可能性を三つ上げている。まず、ブレア・アソール蒸溜所は、漱石の滞在したダンダラック・ハウスから歩いて数分と目と鼻の距離にあること、漱石はスコットランドの国民詩人、ロバート・バーンズのことをよく知っていて、バーンズのウイスキーの詩の「Scotch Drink」や、かの不朽の金言、”自由とウイスキーは共に進む”を含む「Author’s Ernest Cry and Prayer」を読んでいたと思われること、ピットロッホリー滞在中に地元の人から自慢のウイスキーを振舞われた可能性が高い、である。一方で、漱石はもともと下戸で甘党、長年胃潰瘍に悩まされていて酒はあまり飲まなかったようである。何か新資料の発見でもないとこの疑問は解けない。
ブレア・アソール蒸溜所
1798年創立のこの蒸溜所は、現存するスコッチ・モルト蒸溜所の中で9番目に古い。最初はアルダウアー蒸溜所という名前だったが、1825年にブレア・アソール蒸溜所に改名した。なんでも、蒸溜所の地主が10㎞ほど北のブレア城の城主のアソール公爵だったので、ちょっと胡麻をすったという話である。1932年に休止、1933年にアーサー・ベルに買収されたが、長くサイレントの時代が続き、実際に稼働したのは1949年であった。ベルはブレンデッド・スコッチの有力銘柄で、現在はディアジオ社の傘下にある。
写真5.ブレア・アソール蒸溜所のヤード:ヤードは建物に囲まれたスペースで、多くの古い蒸溜所で見られる。ヤードは以前、原料資材の受け入れや、ウイスキーの樽や糖化粕の出荷に馬車が使われていた時代に、馬車の出入りや荷の積み下ろしをする広場である。
ブレア・アソール蒸溜所は、年産で約2,500klpa(kiloliter pure alcohol : アルコール分100%換算のキロリッター)の中規模の蒸溜所である。製法の特徴は、ノン・ピーテッド麦芽を使用し、濁った麦汁を短時間発酵させた醪を蒸溜することにある。出来上がるスピリッツは穀物系でややスパイス様の重い風味になる。クリーンでフルーティーなウイスキーを造るには清澄麦汁を長時間発酵させるが、ここではその反対を行っている。
見学者の待合室に変わったバーがある。元は、インバネスよりはるか北のクラインリッシュ蒸溜所で使われていたマッシュタンが不要になったので、昨年7月に運んできて、テイスティング用のバーに改造した。改造は出来るだけ原型を残し、ウイスキー造りの要の一つの仕込み設備に直に触れてもらうという発想である。
写真6.ブレア・アソール蒸溜所ビジター・センターのマッシュタン・バー:ご覧のように、マッシュタンの本体、濾板、攪拌機は元のまま残し、銅製のカバーは一部を切り取っただけ。雰囲気は良いが、中は狭く作業のバーテンダーには少し窮屈そうであった。
この蒸溜所は、蒸溜所内の撮影は禁止なので、生産設備のご紹介が出来ないことをお許しください。
エドラダワー蒸溜所
ピットロッホリーにあるもう一つの蒸溜所は、エドラダワー蒸溜所である。ブレア・アソール蒸溜所から目抜き通りを中程まで行き、その交差点を右に折れ、道なりに古い集落のモウリン(Moulin)を抜けて、蒸溜所の道路標識に従って右折し狭い下り坂を行くと小さな渓谷があり、蒸溜所はその中にある。町から10分ほどで着く。
スコットランドでここ3年ばかりのあっと言う間に、20くらいのクラフト・モルト蒸溜所が誕生したが、エドラダワーはそれまで長年、現存するスコットランドの蒸溜所で最小、今のクラフト蒸溜所の元祖のような存在であった。創業1825年と公称されているが、実際に蒸溜所の建設が始まったのは1837年だったことは、近隣の農家の共同組合が土地使用の許可をランド・オーナーのアソール公爵に出した手紙が、アソール城の古文書に残されていることで分かる。
写真7.エドラダワー蒸溜所:小さな渓谷の畔にある。小さいながら、蒸溜から瓶詰めまでの全ての工程があり、人気のツーリスト・スポットでもある。
以来、蒸溜所は幾多の歴史の荒波を越えて現在に至っている。1933年までは、創業の協同組合メンバーのつながりがあったが、この年蒸溜所はエジンバラのウイスキー・ブレンダー、ウイリアム・ホワイトリー(William Whiteley)氏に買収された。ホワイトリーは強烈なビジネスマンで、禁酒法時代のアメリカでかのマフィアの大ボス、フランク・カステロ(Frank Costello)とエージェント契約を結び、大量のスコッチウイスキーを売った。ニューヨークの潜り酒場にマフィアがやってきて、“俺のウイスキーを置いてくれ”と言われれば、Noと言った時に何が起こるか分かっているだけに注文するしかなかった。ホワイトリーの話は、1922年に創業家からバランタイン社を引き継いだジェームズ・バークレーが禁酒法時代のアメリカで、身の危険を賭してビジネスに邁進した事と通じるものがある。ホワイトリーの成功したブランドにキングス・ランサムがあり、このブレンドにエドラダワーのモルトが使われていたという。
ホワイトリーは1938年に引退した。ビジネスを引き継いだのは、アメリカ人でホワイトリーの他の会社に投資をしていたアーヴィン・レイム(Irving Raim)であるが、彼はカステロに繋がっており、エドラダワー蒸溜所は1976年にレイムが死ぬまでマフィアが所有していたと言える。蒸溜所はその後、1982年にペルノ傘下のキャンベルが買収、2002年から、シグナトリー(Signatory Vintage Scotch Whisky Company)がオーナーになっている。
エドラダワーは、昔ながらの設備と製法を守っていることで有名である。鋳鉄製でカバー無しの仕込槽(1.1トン/仕込み)、モートンの麦汁冷却器、木桶発酵槽(6,000リッター 2基)、小型の蒸溜釜 (張り込み量は初溜釜が約3,000リッター、再溜釜が約2,000リッター)、ワーム型コンデンサー等である。
写真8.仕込槽:1900年製で、側板は鋳物、トップ・ドライブの攪拌機、仕込みが終了して槽に残った糖化粕を排出するのは人力によっている。
昨年、蒸溜所は製造能力を倍増した。多くの蒸溜所は、能力を増やす時には、蒸溜釜以外の仕込槽や発酵槽はバッチのサイズを大きくし、基数を増やさないようにするが、エドラダワーは既存の古い蒸溜所のレプリカの蒸溜所を場内に建設した。設備の大型化による生産性の向上よりも伝統を順守したと言えるが、流石に、新しい仕込槽は人が槽内に入って粕出し作業しなくてもよいようになっている。現在の生産レベルは年間130klpa(前出のブレア・アソール蒸溜所の約20分の1)、スピリッツの風味はがっしりしているが、優しいフルーティさも備えている。小回りが利くクラフト蒸溜所の特性を生かして、色々な樽で熟成した多様なフレーバーの製品を出している。
参考資料
1. 夏目漱石年譜 http://www2a.biglobe.ne.jp/~kimura/snenpu.html
2. 多胡吉郎(2004)「スコットランドの漱石」文春新書
3. 青空文庫:夏目漱石著『永日小品』https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/758_14936.html#midashi200
4. Andrew Cameron (2006). Edradour. The Myth, The Mafia & The Magic.
5. https://scotchwhisky.com/whiskypedia/1824/blair-athol/#/
6. https://scotchwhisky.com/whiskypedia/1840/edradour/