写真1.現在のアナンデール蒸溜所:1887年にこの蒸溜所を訪問したアルフレッド ・バーナードは、蒸溜所のあるアナン渓谷は明るくなだらかで、豊かな若葉色の牧場はイングランドの風景だ、と記したが、後ろの鉄塔以外その雰囲気は今も変わっていない。
写真1.現在のアナンデール蒸溜所:1887年にこの蒸溜所を訪問したアルフレッド ・バーナードは、蒸溜所のあるアナン渓谷は明るくなだらかで、豊かな若葉色の牧場はイングランドの風景だ、と記したが、後ろの鉄塔以外その雰囲気は今も変わっていない。
ボーダー・リーヴァーズ最後の訪問先は、アナンデール(Annandale) 蒸溜所である。所在は、スコットランド南西部、イングランドとはソルウェー湾を挟んだ北側、ダンフリース・ガロウェーのアナンの町の北2kmほどのところにある。アナンは古い町である。1300年前の領主はブルース家で、イングランドからスコットランドの独立を勝ち取ったロバート・ブルースを輩出した。18世紀以降、ソルウェー湾の奥に流れ込むアナン川河口の港から、地元産品の穀類、畜産品、麻やロープの積み出しでにぎわったが、第二次大戦以降の産業変革と2004年に町域にあったチャペルクロス原子力発電所が閉鎖されてから大きな産業を欠き、町の再活性化が課題となっている。その中で、豊かな農業を背景にした食品・飲料の生産と観光産業が狙いで、雇用力が大きく、見学客の多い蒸溜所に対する期待は高い。
アナン蒸溜所は、1830年の創立と言われている が、操業開始は1838年頃と思われる。古い蒸溜所であるが、1919年から88年間蒸溜所としては使われず廃墟になっていたものを2007年に買い取り蒸溜所として再興したのは世界的な消費者調査会社mmr社のオーナー社長で、イングランド南部のレディング大学の食品科学の教授もしていたデヴィッド・トムソン氏と夫人のテレサ・チャーチ夫妻である。荒れ放題の蒸溜所ではあったが、建物はBクラスの保存指定を受けていて、それを実働する蒸溜所にするには大変な費用と7年の歳月を要した。この蒸溜所の復活の経緯は、既に本稿第85章に述べた。
写真2.西側から見たアナンデール蒸留所:写真手前右は製麦棟、左にドイグが設計したパコダが見える。ドイグが設計したキルンの第1号は、スペイサイドのダイルエイン(Dailuaine)蒸溜所に導入され、アナンデールは第2号機であった。ドイグのパコダ型のキルンはそれ以前のものに比べて圧倒的に効率が改良されていた。
蒸溜所の経緯
アナンデール蒸溜所は、発祥から現在まで下記5人のオーナーの手を経てきた。
第1期1830年(1838年)―1883年。ジョージ・ドナルド(元エルギンの税務官)。蒸溜所の基本を造り45年に亘って経営した。
第2期 1883年-1893年。ジョン・ガードナー(リバプール市長の子息、職業は不詳)。蒸溜所を近代化し、ピーク時には年間73kl(100%換算)を生産した。1887年にはアルフレッド・バーナードが訪問し、詳細な記録を残した。
第3期 1893年-1924年。ジョン・ウォーカー社(ジョニー・ウォーカーのブレンダー)。1895年に、あのパコダ・キルンで有名な蒸溜所設計会社チャールズ・ドイグの案を取りいれて蒸溜所を改装した。麦芽の乾燥塔のキルンをパコダ型に変更し、位置を現在の場所に移した。ジョン・ウォーカー社は、1919年に操業を中止、1921年-1924年に亘って機器の撤去と建物の一部を解体している。
第4期1924年-2007年。ロビンソン&サンズ社(オートミールのメーカー)。ジョン・ウォーカーから蒸溜所を購入したのは、地元アナンのオートミールのメーカー、ロビンソン&サンズ社である。蒸溜所を購入した目的はウイスキーの蒸溜ではなく、オートミールの製造と貯蔵庫に使うためであった。建物の相当部分が取り壊された。
第5期2007年-現在。アナンデール・ディスティラリー・カンパニー。前述のように、デヴィド・トムソン氏と夫人のテレサ・チャーチ夫妻が会社を設立、蒸溜所を購入し改装の上操業中である。
考古学調査
アナン蒸溜所は建物の大部分は残っていたが、設備や工程についての記録は残されておらず、トムソン氏は改装工事に取り掛かる前に過去の状況を調査・記録しておくことは学術上の価値が高いと判断し、総合的な調査を行うことにした。調査は、蒸溜所の歴史を、発掘調査を中心に総合的に行うもので、グラスゴー大学の考古学部が担当した。調査は2008年から2010年まで2年かけて行われた。
その結果が纏められた報告書が手元にある。簡易カバーの報告書で、タイトルは「アナン蒸溜所のデータ構造報告書」。詳細な結果が纏められたもので、アナン蒸溜所の産業考古学の研究報告書である。報告書はA 4版75ページ、そのうちA 3版の図面4ページが含まれている。執筆者はグラスゴー大学の考古学部、2010年の出版である。
調査対象期間は19世紀始めから21世紀始め迄で、方法は、まず関連のありそうな文献記録、地図、設計図等を収集精査するが、このうち特に情報価値が高かったのは国立陸地測量部(オードナンス・サーヴェイ)が測量・発行した第1版から第4版までの地図、1887年のバーナードの訪問記録、ドイグがジョン・ウォーカー社に提出した蒸溜所の改装計画の設計図である。次に蒸溜所の発掘作業を行い、結果を解析するという手順である。
蒸溜所の変化
考古学調査の結果いくつかの興味のある発見があった。まず蒸溜所は、第2期のガードナーの時代、第3期のジョン・ウォーカーの時代、蒸溜を止めてオートミール工場になった第4期時代の各時代に変更が加えられ、原状から大きく変わってきたという事実である。
写真3.現在のアナンデール蒸溜所:正面のキルンのある建物が生産設備のある蒸溜所。蒸溜所正面の広場はヤードと言われていたところで、原料や樽の搬入、搬出が行われていたところである。
オードナンス・マップ
写真3の現在の蒸溜所の建物の向きは、左端が南南西で右端が北北東である。写真3の右側、煙突の奥の建物は2007年以降の改装工事で新しく建てられたもので、それ以前は煙突だけがヤードの中にぽつんと立っていて、トムソン教授はなぜこんなところに煙突だけがあるのだろうと不思議に思ったそうである。調査の過程で分かったのであるが、オードナンス・サーヴェイ1858年の第1版と1899の第2版の地図には、煙突とキルンの右側部分の間は建物でつながっていたこと、この建屋部分は1931年のオードナンス・サーヴェイ第3版では無くなっている事である。1921年の操業終了以降の撤去作業の時に取り壊されたと思われる。
ドイグ・アーカイブ
この取り壊された建物の用途は何だっただろうか。1895年にオーナーのジョン・ウォーカー社は、生産増強と合理化を目的として行った改装作業の設計をチャールズ・ドイグに依頼した。ウォ-カー社はドイグの設計通りに改装工事を行ったわけではなく、気に入ったところだけを、いわばつまみ食いで施工したのだが、その時の設計図がエルギンにあるヘリテージ・センターに残っていて参照する事ができた。それによると、無くなった建物には醗酵室と蒸溜室があり、醗酵槽が4基、ウオッシュ・チャージャー(醗酵終了醪の待ちタンク)、ポット・スティル2基があり、この建物の北側には麦汁の冷却器、ボイラー室が置かれていた。
バーナードの訪問記録
アルフレッド・バーナードは1885年から1887年にかけてアイルランドを含む全英のウイスキー蒸溜所161箇所を訪問しているが、アナンデール蒸溜所には1887年に訪問し、時のオーナーのガードナー氏が直々に案内した。そのレポートによると、最初3階建ての最上階の大麦の貯蔵庫とその下2階と1階の発芽フロアーを見学し、各フロアーには浸麦槽があること、次の工程の麦芽の乾燥キルン(この時のキルンは現在残っているパコダのキルンが導入される前のキルンである)では、燃料にはピートを使っていること、麦芽の粉砕機はローラーミルだったこと、仕込み室には温水を製造するポットが2基とマッシュ・タンがあり、その容量は3,200ガロン、モートン式の麦汁冷却器(銅製のチューブの中を冷却水が通りチューブの外側を麦汁が流れる方式で、エドラダワー蒸溜所で見られる)で冷却された麦汁は、3階建ての醗酵室最上階にある4基の3,600ガロンの醗酵槽に送られ、2階には2,800ガロン容のウオッシュ・チャージャーがある事を記している。
蒸溜はポット・スティルで冷却器はワーム(蛇管式)であり、年間の生産量は28,000ガロンとある。バーナードの記録の利点は、完全ではないが製造条件が記されていることで、当時の製法や規模が分かることである。麦芽の乾燥をピートだけで行っていたというから、アナンデールのローランド・モルトは今のアイラ・モルトよりスモーキーだったと思われる。アナンの東、約15㎞のグレトナには広大なピート野があり、ピートの調達は容易だった。
写真4.左側の製麦棟と右側のキルン:バーナードの記述通り製麦棟は3階建てである。現在1階部分はザ・モルティングス・コーヒーショップで軽食が美味しい。名前は建物がもとは製麦棟だったことに由来する。
発掘調査
以上の文献上の情報を踏まえて、検証のための発掘調査が行われた。その結果、過去の蒸溜所の変化で確実になった事は下記のとおりである。
これらの内、蒸溜室の発掘跡が埋め戻されずに見ることができる。
写真5.ポット・スティルの加熱炉跡:ポット・スティルを置いた円形の炉、奥に排煙を煙突に導く煙道が見える。ポット・スティルは2基だったことは分かるが初溜釜、再留釜の配置は不明。焚口は地面から1m半くらい下がっていて手前右側に階段と燃料の石炭の置き場がある。
以上の調査結果を踏まえて作成されたのが、19世紀末頃の蒸溜所の復元図で、この図は、蒸溜所のゲートを入ってすぐのところに掲示されていて、当時の蒸溜所の様子が良くイメージできる。
図1.19世紀終わり頃の蒸溜所:工程は左下から時計回りに発芽床、キルン、仕込み、醗酵、蒸溜、蒸溜されたスピリッツの受タンクと樽詰め行うスピリッツ・ストアという流である。今よりずいぶん立て込んでいて、馬のいるヤードは狭かった。
当時の生産の条件をバーナードの情報を元に推定してみる。当時の規制では、仕込みと蒸溜を同じ日に行うことは出来ず、仕込みは月、火、水、蒸溜は木、金、土という作業であった。発酵槽が4基しかないはこの理由による。週の仕込み回数は3回、1仕込み当たり2,800ガロン(ウオッシュ・チャージャーの容量を採用)、発酵醪のアルコール度数5%、年間の操業週を38週とすると年間の製造量はアルコール100%換算で年間約72,500リットルとなり、バーナードの年間生産量の28,000ガロン(プルーフ・ガロン)の72,800リットルと合致する。この量はシェリー・バット換算で230樽である。1日の醪量2,800ガロンは約13,000リットルでこれが初溜釜の容量だったと思われる。
ウイスキーの品質についてバーナードは記述していない。ピートだけを燃料として乾燥したスモーキーな麦芽、ゆっくりした仕込みによる清澄麦汁、近隣のビール工場から得たであろうエール酵母による72時間の長時間発酵は酵母以外の雑菌が一杯で発酵醪は酸っぱく残糖が多い、この醪を石炭の直火で加熱していたので、スモーキー、フルーティーで複雑なフレーバーだったと想像される。
2014年に再興された現在の蒸溜所については、第85章に記したのでそちらをご覧ください。
ベルテッド・ガロウェー
写真7.ベルテッド・ガロウェー牛の模型:蒸溜所のあるダンフリース・ガロウェー地方特産の牛である。原種はスイスでオランダ経由で入ってきたと言われている。高地の寒冷な気候と粗食に耐えられる。
19世紀終わり頃の蒸溜所の復元図近くに置かれているのが、この地方が原産と言われているベルテッド・ガロウェーという品種の牛の模型で、蒸溜所のマスコット・アニマルである。真っ黒な胴体を真っ白なベルトが巻いていてその単純明快なデザインに驚愕した。近くの牧場で実物も見たが、ベルトの白は塗料を塗ったものではなく根っから牛のDNAによる。厳しい条件でも育ち、脂肪分の少ない肉質は近年人気が上がっているという。
アナンデール蒸溜所の訪問で、今回のボーダー・リーヴァーズの旅は終わった。訪問したビール工場や蒸溜所はいずれも規模は小さかったが、いずれも個性的な物つくりとストーリーに富んだ背景が印象的だった。