写真1. エロン(Ellon)のブリュードッグ・ビール醸造所の入り口すぐにあるドッグタップ・パブ(DogTap Tap Room)。Tap roomは、「タップからビールを注ぐところ」から、酒場や居酒屋を意味するが、内容はパブ・レストランである。巨大なイカ、サメ、クラゲなどの海洋生物を漫画で描いた外壁は、会社自身が‘結構スゲー(Awesome)!’という程で度肝を抜かれるが、世間の常識の反対を行く事をモットーにしている会社らしい。
写真1. エロン(Ellon)のブリュードッグ・ビール醸造所の入り口すぐにあるドッグタップ・パブ(DogTap Tap Room)。Tap roomは、「タップからビールを注ぐところ」から、酒場や居酒屋を意味するが、内容はパブ・レストランである。巨大なイカ、サメ、クラゲなどの海洋生物を漫画で描いた外壁は、会社自身が‘結構スゲー(Awesome)!’という程で度肝を抜かれるが、世間の常識の反対を行く事をモットーにしている会社らしい。
ブリュードッグ蒸溜所は、ブリュードッグ・ビールの子会社で、アバディーンの北約25㎞のエロン(Ellon)郊外にある本社と主力工場の中にある。エロンは、今でも鮭が遡上し獺が目撃されるという清流のイーサン(Ythan)川に沿った人口約1万人の瀟洒な街である。その西側に開発された工業団地に、2012年にブリュードッグ・ビール工場が建設された。それまでのやや北のフレーザーバラから引っ越してきたのである。2016年にそのビール工場内に蒸溜所がつくられ、Lone Wolf(一匹狼)蒸溜所と命名されたが、後にブリュードッグ蒸溜所に改名された。蒸溜所の親会社のブリュードッグ・ビール会社の座右の銘は、一言で言えば“既存のビールとビール業界への反逆”と言える。
アバディーン州の北東端、北海に面したフレーザーバラ(Fraserburgh)は、人口約13,000人の町で、貝類、鱈、鰊などを水揚げする大きな漁港である。日本の近代化に大きな役割をはたしたトーマス・グラバー(Thomas Glover)の出身地である。2007年、この町で、まだ若干24歳の二人の青年、ジェームス・ワット(James Watt、以下ではJW)とマーチン・ディッキイ(Martin Dickie、以下ではMD)が、自分たちのなけなしの貯金に銀行から借りた2万ポンド(約320万円)を元手に中古の醸造器具を買い、全く機能していない工業団地の一角に、ボロ屋を借りてビールを作り始めた。現在、世界に4工場、パブ100軒を経営するブリュードッグ社のスタートである。会社のロゴになっているブリュードッグはMDが務めていたソーンブリッジ(Thornbridge)ビール醸造所に居ついていた犬で、Brew dog(醸造犬)と呼ばれていたことに因る。
エジンバラで経営と法律を学んでいたJWと、醸造を専攻していたMDは同じフラットをシェアーしていて、よくビールを飲み論議をしていたが、二人とも大手が大量生産するビールは旨くない、もっと旨いビールが欲しいという思いで一致していた。卒業後、JWはフレーザーバラで実家の漁師を手伝い、MDはイングランド、ダービー州にあるソーンブリッジ醸造所に就職した。離れていたが二人は良く会いビール議論を戦わせていた。
2006年のことである。会社をスタートするそのきっかけは、議論を重ねたビールを試作し、著名なビール・ウイスキー評論家だった故マイケル・ジャクソン氏に試飲してもらったところ、“君ら、今の仕事をすぐ止めて、このビールつくりに専念しろ”と激励された事である。MDはビール会社を辞めてフレーザーバラに行き、二人で会社を設立した。以後の経過は下記の通りである。
2007年にフレーザーバラでビールつくりを始めた。出来たビールを、夜を徹して瓶に詰め、おんぼろ車に乗せて売り歩くが全く売れず。しかし、ある大手スーパーのコンペで、出品した4種のビールが1位から4位を独占し、全国全店で一週間の棚取りを獲得した。今ではトップ・ブランドのPUNK IPAはこの時誕生したが、1970年半ばに誕生した反体制的、攻撃的なPUNKロックを意識した命名である。
2008年発売のアルコール度12%のTokyo Ale、2010年にアルコール度数55%のEnd of Historyを発売。健全な飲酒を掲げる大手酒類企業の団体ポートマン・クラブ(Portman Club)との確執に発展した。2010年にアバディーンにパブの一号店を出店、以後英国内と海外にパブ・チェーンを展開し、現在は100店舗を持つまでになったことは既に述べた。
販売の増加に伴い、フレーザーバラの醸造所は能力不足になったので、2012年にエロンに新工場を建設した。
写真2. ビールの発酵タンク:2016年には醸造設備を一新した。現在の醸造能力は年産約100万ヘクトリッターで、これはサントリーの京都工場の約1/3の規模である。
国際展開を狙い、2015年にはアメリカのオハイオ州の州都コロンバスに、2019年にはベルリンとオーストラリアのクイーンズランド州の州都ブリスベンに醸造工場を建設している。2017年に果汁ブレンドのヘイジイ・ジェーン(Hazy Jane:Janeは女性名)を発売し成功、今では主力ブランドになっているが、ヘイジイ(濁った)は製品が透明ではないことと、“酔っぱらいジェーン”の含意もあるようだ。2018年、将来の目指すべき方向を示したブループリント、「ビール、地球、人々」を発表。2020年のコロナ禍のブリュードッグ蒸溜所でコロナ対策用に消毒用アルコールを50万本製造し、NHS(国民保健サービス)に寄付している。2021年に廃水の嫌気発酵設備が完成し、炭酸ガスの排出がネガティブとなった。2021年度の売上高は約480億円である。
マーケティング
ブリュードッグのビールは、筆者の限られた経験では、個性的でレベルも高いという印象であるが、ブリュードッグ成功の最大の原動力はその“攻撃的で、常軌を逸し、反感を買い、しかし巧妙なマーケティングにある”と言われている。製品は出来ても多くの人に買ってもらうには告知が必要だが、資金のないブリュードッグには既存の媒体を使った広告は考えるまでもなく無理だった。
そこで採用したのが、既存大手のビール会社とその団体、メディアの広告基準機関、金融市場などに痛烈な嘲笑、皮肉、批判を浴びせ、マスコミやネットが炎上する商品開発とそのネーミング、パフォーマンスを展開することだった。例を挙げると、既に述べた高アルコール度数のビールや、製品名「スピード・ボール」(麻薬のカクテルを意味する)を禁止されることを知りながら投入し、禁止が出ると品名を「ドグマ」に変更した。2011年にはアルコール度数55%の「エンド・オブ・ヒストリー」(フランシス・フクヤマの同名の著作に由るが、ビール技術の最終地点を意味)をリスや貂の縫いぐるみに入れて発売した(リスや貂は車にひかれて既に死んでいたものを使った)が動物愛護協会からも激しい抗議があった。同年、ロンドンで初めてパブを出店した時にはパブの前の通りをJWとDMが戦車に乗って行進した。2012年、JWとDMは自分達のヌードを国会議事堂に投影、全裸を遮るものは1ダースのブリュードッグのケースだけだった。その他枚挙に暇がないが、詳しくは参考資料欄に掲げた4.と5.をご覧いただきたい。2007年にゼロから出発し、15年で500億円に近い会社に育てたのは大成功といえるが、もうこの規模になると、これからも人々を怒らせる行為や過激なパッションだけでやっていけるかを疑問視する声もある。それと、製品は個性的だが価格は大手メーカーのビールに比べると約5割高く、庶民が常用するには限界がある。量産型ビールはブリュードッグのアンチテーゼだが、存在価値が無くなった訳ではない。
技術へのこだわり
ブリュードッグは過激なマーケティングだけの会社ではない。既存のビールの枠を破るには新しい技術(効率化の為に捨てられてしまった技術も含んで)が必要で、原料は、大麦(ゴールデン・プロミス、マリス・オッターなど)、ライ麦から小麦まで、麦芽(ウイーン麦芽、チョコレート麦芽など)、発酵(通常酵母以外のブレッタノマイセス、野生酵母、乳酸菌、樽発酵など)に至るまで広く研究している。技術で常識になっている範囲を超えて、可能性を追求してみようという姿勢で、スコットランド版の“やってみなはれ”である。後に述べるが、ウイスキーでは他の原料や蒸溜、貯蔵のバリエーションが加わるのでその組み合わせは膨大になる。
ブリュードッグのビールに関する項はこれで終るが、過激な商法で多くの非難を浴びたJWは、個人的には思いやりがあり、愛想の良いチャーミングな性格で、MDはもう少し控えめだが、考え方はよく似ていて、根っからの醸造屋だそうだ。
ブリュードッグ蒸溜所
前置きが長くなったが、蒸溜所の紹介に移る。蒸溜所は入り口から一番奥にある。案内してくれたのは蒸溜所のディレクター、スティーブン・カースリー(Steven Kersley)さん。グラスゴー大学の化学科を卒業した後、エジンバラのヘリオット―ワット大学で醸造・蒸溜学科の修士を卒業してからウイスキー業界に入り、ベンリネス(Benrinness)、クラインリッシュ(Clynerish)、リンクウッド(Linkwood)のマネジャーを務めた。学識と実務経験の双方に富んだ技術者である。なぜウイスキー業界に入ったか聞いたところ、自分はオーバン(Oban)の生まれだが、学生時代に休みの時にはオーバン蒸溜所のガイドのバイトをしていて、ウイスキーに興味をもち、この仕事を選んだそうである。
工程の概要は下記の通りである。
仕込み
通常の発酵用の麦汁はビールの仕込み設備を使って製造する。工程は、通常のマッシュ・タンやラウター・タンの一槽式インフュージョン法ではなく、ビール式の仕込槽に45℃で投入し、順次温度を上げて最終段階で65℃にする。仕込槽で糖化はほぼ完了する。次いで、マッシュをロイターに移して濾過し、麦汁はケトル(煮沸釜)で85℃まで加温して15分間保持してから冷却し蒸溜所の発酵タンクへ送る。清澄度の高い麦汁を作っている。
写真3. 仕込み設備:ドイツZieman社製。仕込槽は後方右側に あり、この写真では見えない。一仕込み当たりの麦芽量は7.5トンで、仕込槽で糖化の終わったマッシュを左手前(一部しか見えていない)のロイターで濾過、麦汁は3番目のケトルで加熱後冷却して発酵槽へ送る。
発酵
発酵槽は蒸溜所の建物に隣接して屋外にある。高濃度発酵で、酵母はディスティラーズ・イーストにワイン酵母やラム酵母を混合して使用、発酵時間は4日間、発酵終了醪のアルコール度数は9-10%である。この他、室内にも容量15klの発酵タンクが6基あり、これらはウイーン麦芽、カラメル麦芽などの特殊麦芽を含む麦汁の発酵に使用している。
写真4. 発酵タンク:黒い建物の手前の大きなタンク2基が発酵タンクで、容量80klのステンレス製である。黒い建物は蒸溜室で、ウオツカ製造用の精溜塔が入っているので高い。
蒸溜
数種のモルト・ウイスキー、ライ・ウイスキー、小麦・ウイスキー、ウオツカ、ジン、ラムを蒸溜するので多彩な蒸溜設備を備えている。設備はドイツのホルシュタイン社製である。
・モルト・ウイスキー。ポットによる2回蒸溜を行う。初溜釜の容量は10kl、2基の再溜釜の容量は各3klである。ポットは初溜釜も再溜釜も、ネックに3つの膨らみ(Ball)のある異様な形をしているが、釜内でウイスキーの蒸気と釜の銅との接触と還流を増やしスピリッツをクリーンにする効果を狙っている。コンデンサーは、ステンレス製のシェル・アンド・チューブ型である。通常、コンデンサーは銅製だが、これは銅がウイスキーの蒸気に含まれる硫黄化合物と反応して、硫黄化合物特有の腐った卵、どぶ、硫黄泉等の臭いを除く効果があるからである。ステンレス製にすると、ウイスキーにこういった臭いが着く恐れがあるが、ブリュードッグ蒸溜所では再溜釜から出てくる蒸気を銅のピューリファイアー(Purifier)カラム(塔)を通して硫黄臭いを除去してから最終のコンデンサーで凝縮する方法を取っている。尚、初溜釜にもカラムがあり、これを使うと蒸溜一回で本溜液を作ることが出来る。
写真5. ブリュードッグ蒸溜所の蒸溜室:多種類のスピリッツを蒸溜するためウイスキー用ポット・スティルが3基、ジン用が1基、ウオツカ蒸溜用のカラムが2塔ある。ポット・スティルには精溜用のカラムがあり、多様な蒸溜モードが可能である。
・ライ、小麦ウイスキー。モルト・ウイスキーと同じ蒸溜釜で蒸溜するが、本溜液はピューリファイアーでの精溜度を上げて84%で採取する。
・ラム。ポットで蒸溜し、スピリッツはピューリファイアーで84%の濃度で採取する。
・ジン。600リッターのジン・スティルで蒸溜する。ジン・スティルにもレクティファイア・カラムがあり、フレーバーのコントロールが可能である。
・ウオツカ。小麦を麦芽で糖化し発酵させた醪をポットで蒸溜し、60段のカラムで精溜した後に更に35段の脱メチル塔でメチル・アルコールを除去する。
貯蔵
バーボン、シェリー、ワインなどの樽を使用し、温湿度調整可能な貯蔵庫で貯蔵する。テ―スティングさせてもらったライ・ウイスキー(ボルドーの赤ワイン樽で4年間熟成させたもの)は、赤みを帯びた色調で、風味は軽いながらややスパイス、ワイン風、酸味、複雑な味わいであった。
ブリュードッグ蒸溜所は、単一の蒸溜所で多品目の蒸溜酒を製造すること、原料の多様性、ビールの施設と技術による麦汁製造、蒸溜用酵母とワイン酵母による発酵、特有の形のポット・スティルとステンレス・スティール製のコンデンサーと銅製のピューリファイアーによる再溜、温湿度調整可能な貯蔵庫などを採用し、伝統的なスコッチ・モルト蒸溜所とは全く異なる。スコッチの伝統の枠を全部取り払って蒸溜酒技術の可能性の限界まで追求するのは、ブリュードッグのビールと同じ思想に拠ると思われる。“異端、真っ正直、大胆不敵”と言われる所以である。
謝辞:本稿の執筆に当たって工場の案内と情報を提供してくださったブリュードッグ蒸溜所のスティーブン・カースリー氏、種々ご協力くださったビーム・サントリーUKの佐藤 元氏、スコットランド政府公認ガイドの田村直子、宇土美佐子の両氏に深く御礼申し上げます。