少し前書きをさせていただく。前第124章ボウモア蒸溜所を書いていた今年の6月は、丁度エリザベス女王のプラチナ・ジュビリーが行われていて、全英が祝賀気分に満ちていた。章内でご紹介した1980年の女王のボウモア蒸溜所ご訪問の事も明るいエピソードであった。しかし、今この第125章を書いている9月は、8日に崩御された女王の死を悼んで全英が悲しい気分で一杯である。1926年生、1947年に21才でフィリップ殿下と結婚し、1952年父のジョージ6世の死去に伴い25才で英国女王に即位された。以後70年に亙り、英国が数多の困難に出会った時は、こちらの新聞の表現によれば“英国民の心の拠り所”であった。女王の存在感は英国内に留まらず今でも52か国が参加するコモン・ウェルス(Common Wealth of Nations)にも広く及んでいた。死の前日までひたすら職務を全うする姿に多くの人が深い感動と敬愛を禁じ得なかった。
故女王の母のエリザベスは、Arbikie蒸溜所のあるアンガスのグラームス(Glamis)のグラームス伯爵の子女で、後にジョージ6世に即位するアルバート公に嫁いだ。明るく、生き生きした性格、ユーモアにあふれ、絶えず人々への関心を持ち、Queen Motherとして人気が高かった。故エリザベス女王はEnglishとScottishのハーフで、この事が、彼女が亡くなったアバディーンにあるバルモラール城をこよなく愛していた理由の一つであるように思っている。バランタイン・ウイスキーも故女王の国で作られている。謹んで弔意を表したいと思います。
インバネス以南のハイランド東北部には、元はShire(州)と呼ばれていたアンガス(Angus)とアバディーン(Aberdeen)の2つの行政区がある。ここに2000年に入ってから、従来のスコッチの蒸溜所は一味違う新しいかたちの蒸溜所が2つ誕生した。本章ではアンガスのAribikie蒸溜所を、次章ではアバディーンのBrewDog(ブリュードッグ)蒸溜所をご紹介する。
車でエジンバラから北にM90号線でフォース湾を渡り、ファイフを超えてパースの手前で右に曲がってA90に入り30分も行くとダンディー(Dundee)市に着く。市内のいくつものランダバウトを抜けてA92号線に入り、歴史と鱈の燻製で有名なアーブロース(Arbroath)を過ぎると15分で蒸溜所に着く。エジンバラから2時間弱である。
蒸溜所があるのはアンガス(Angus)行政区で、面積は2,182平方キロ、ちょうど東京都と同じ広さである。人口は12万人弱、日本の県庁にあたる行政のオフィスは内陸にあるフォファー(Forfar、人口1万5千人弱)に置かれている。アンガスの主たる産業は農林と水産であるが、北のモントローズには英国屈指の製薬会社GSKの工場がある。ダンディーはアンガスの最南西にある人口が15万人の都市だが、アンガスとは別の独立した行政区になっている。
古くからあったグレンカダム(Glencadam),ロッホサイド( Lochside), グレネスク(Glenesk),ノースポート( Northport)の 蒸溜所は、グレンカダム以外は閉鎖された。最近、6か所ほどのクラフト蒸溜所が出来ているが、Arbikie以外はウイスキーの蒸溜は行っておらず、ジン、ウオツカ、ラムを製造している。
蒸溜所は大農園のArbikie Estateがオーナーでその農園内にある。農園の広さは2,000エーカー以上で、平方メートルに換算すると8百万平方メートルをやや超えるが、これは皇居(115万平方メートル)の7倍以上である。
「From farm to Bottle(農場から製品まで)」がモットーである。実行する具体的な内容は、単一の農園で作物・水、それと極力エネルギーもすべて賄う、持続可能性、環境負荷をマイナスに、再生型農業、パイオニア精神、イノベーション、高級品、トレーサビリティー、ファミリー・ビジネス、地域との協業である。製麦と包材以外はすべてを一か所で行うので総物流距離は非常に短く、製麦も旧グレネスク蒸溜所にあり現在も操業しているグレネスク・モルティングが12㎞先にあるのでそこに委託している。グレネスク・モルティングは年間45,000トンの能力を持つ大型工場であるが、ドラム式の製麦なので小バッチの生産にも対応できて都合が良い。
現在栽培している主要作物は二条大麦、小麦、ライ麦、じゃがいも、えんどう豆で、蒸溜所で使用する主要原料はすべて自給である。その他、ジン用のジュニパーも農園の一画で若木を育て、温室では胡瓜、コリアンダー、レモングラス、アザミ等を栽培している。
蒸溜しているのは、モルト・ウイスキー、ライ・ウイスキー、ジン用の小麦のニュートラル・スピリッツ、エンドウ豆のニュートラル・スピリッツ、ポテト・ウオツカ用のポテトのニュートラル・スピリッツである。多様な蒸溜酒の生産に対応できるように、仕込みはモルト・ウイスキー用のマッシュ・タン、スピリッツ用のクッカー(蒸煮器)とマッシュの温度調整槽がある。蒸溜設備は全て単式蒸溜であるが、ポット・スティルと精溜塔(Rectifying column)の組み合わせが使われている。年間の製造能力は製造品目の組み合わせにもよるが、合わせて100%アルコール換算で最大約300kl(筆者推定)である。大型蒸溜所に見られるコンピュータ制御はなく、ほぼ手動である。製造設備は全てドイツのCarl社製である。
製品の内、モルト・ウイスキーとライ・ウイスキーは樽で熟成する。樽種はバーボンとシェリー、貯蔵庫は平屋であるが、輪木積みとパレット積みを併用している。モルト・ウイスキーは最低でも21年間貯蔵する方針というから2036年まで発売されない。数量も極めて限定的と思われるので、価格はいくらになるだろうか。
蒸溜所ではエンドウ豆からニュートラル・スピリッツを蒸溜し、それをベースにしたジンをつくっている。エンドウ豆は元々輪作の一環として栽培されてきたが、エンドウ豆は約50%の澱粉を含んでいるので麦芽の約82%には及ばないが(どちらも水分0%換算)十分アルコール原料になる。澱粉の少ない分蛋白と脂質が多く、ポット・エール(初溜残液)は家畜飼料として価値が高い。
豆類の根には、窒素をアンモニアに変換できる根粒バクテリアが生息している根粒が多く付着していて、豆はバクテリアが作ったアンモニアを窒素成分として利用するので、栽培に窒素肥料を必要としない利点がある。窒素肥料の製造には膨大なエネルギーが必要なので、エンドウ豆を原料とすれば、グレーン・スピリッツの原料に小麦を使用する場合に比べて大きな省エネルギーになる。又、高蛋白、高脂肪の蒸溜残渣の家畜飼料への利用は、飼料用の大豆の利用、ひいては大豆生産のための森林伐採を減らし、大気中の炭酸ガスの削減に貢献する。結果として、エンドウ豆のスピリッツを原料にしたジンは、1本(700ml)当たり1.54kgの炭酸ガスを削減している事になるという。この研究はスコットランドやアイルランドの多くの大学や研究所の共同で行われたが、栽培からジンの生産に関する現場データの収集と解析はArbikie蒸溜所のマスター・ディスティラーのKirsty Blackさんが担当した。
Arbikie蒸溜所では、環境負荷改善のために風力発電を導入して水素をつくり、水素をボイラーの燃料とすることで化石燃料の使用を減らすプロジェクトを進めている。
謝辞:本章の執筆のために蒸溜所の詳細なデータを提供していただいたArbikie蒸溜所のマスター・ディスティラーのKirsty Black氏、蒸溜所訪問のアレンジをいただきましたスコットランド政府公認ガイドの田村直子、宇土美佐子両氏、Beam Suntory UKの佐藤元氏に厚く御礼申し上げます。