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稲富博士のスコッチノート

第27章 ダフタウンとグレンフィディック蒸溜所

ウイスキーの町ダフタウン(Dufftown)

ダフタウンのクロック・タワー:町の中心の交差点にあり、ダフタウンのシンボル。1839年に建てられた。当初は監獄だったが、後に町の議会場にも使われ、現在はツーリスト・インフォーメーション・センターが入っている。

Dufftownはスコットランドではダフタン(Duff 'tonn)と発音する。モルト・ウイスキーの蒸溜所が多いスペイサイドの中でもダフタウンほど蒸溜所が集中しているところはなく、ダフタウンとウイスキーは同義語といわれる。現在蒸溜をしている蒸溜所が6箇所、蒸溜はしていないが、貯蔵庫が使われているところが1箇所、閉鎖されたところが2箇所である。ここで生産されたウイスキーにかかる酒税を町の人口一人当りに換算すると、英国国庫への寄与はダフタウンの町民が英国で一番との試算もあるそうだ。真のウイスキー・タウンといってよい。

ダフタウンへは国道A95を南からくるとスペイ川沿いのクレゲラキー(Craigellachie)で右折、左にクレゲラキー蒸溜所、しばらくして右側にウイスキーの樽を作っているスペイサイド・クーペレージ(Speyside Cooperage)を過ぎ、10数分も走ると左にコンヴァルモア(Convalmore)、そのやや奥にバルヴェニー(Balvenie)、一際大きなグレンフィディック(Glenfiddich)の各蒸溜所が見える。町中に入ると正面に有名なタワーが目に入るが、ここが町の中心である。

町の沿革

モートラッハ教会:ここに最初に教会が建てられたのは5世紀頃、スコットランドでも最も古いキリスト教のセトルメントだったと言われている。墓地内にはグラント一族の墓もあり、グレンフィディック創設者ウィリアム・グラントと妻のエリザベスもここに眠っている。

バルヴェニー城:13世紀につくられた。以後スコットランドの幾多の動乱に関わった。悲劇の女王メアリーも滞在したことがある。グレンフィディック蒸溜所のすぐ裏手にある。

現在の町は比較的新しく、1817年にファイフ伯爵がナポレオン戦争後の失業対策に建設したものだが、その起源は古い。町に現存するモートラッハ (Mortlach)教会は13世紀にはその存在が知られているし、言伝えでは始まりは5世紀で、スコットランドでのキリスト教の施設としては最も古いものの一つとされている。13世紀にはこの交通上の要害の地にバルヴェニー城が建てられ、幾多のスコットランドの動乱を眺めてきた。

町は19世紀に建設された町の特徴である広い道路が時計塔から東西南北に走っていて、クレゲラキーやモレイ州の州都エルギン(Elgin)、キース (Keith)、ハントリー(Huntly)、トミントール(Tomintoul)等ウイスキーにとって重要な町に通じている。人口約1500人で、いうまでもなくモルト・ウイスキーが最大の産業である。春と秋の2回開催されるイベント、スペイサイド・ウイスキー・フェスティバルの中心となっている。

グレンフィディック蒸溜所

ダフタウンで操業しているモルト蒸溜所は現在6蒸溜所で、3蒸溜所がウィリアム・グラント社、3蒸溜所がディアジオ社に所属している。いずれも規模が大きく、主力の蒸溜所だが、なかでもグレンフィディック蒸溜所は、その知名度、生産規模、見学者数の多さで特筆すべき存在である。グレンフィディック蒸溜所の創設は1886年。創業者は地元ダフタウン出身のウィリアム・グラント(William Grant)である。

グレンフィディックの歴史

1.オールド・ウォタールー

ウィリアム・グラントの父親(おなじくウィリアム)は1784年に近郊の小作農家に産まれ、ダフタウンで仕立屋の見習をしていたが、折からヨーロッパを吹き荒れたナポレオンの脅威に愛国心をふるいたたせ、地元の連隊ゴードン・ハイランダーズに志願した。彼23歳の時である。しかしながら、グラント一家は歴代小柄な体型の持ち主が多く、ウィリアムも身長は150cm足らず、とても兵隊の基準に達しなかったが、年齢を8歳ほど若く申告して‘まだ少年で成長中'ということで入隊した。ナポレオン戦争では、ウォタールーの戦いを含み幾多の戦闘に参加、中には部隊1000人中生存者300人という過酷な激戦も経験した。後に彼曰く、‘敵の弾は全部頭の上を通り過ぎた。もし背が高かったら100回は死んでたね'と。

ナポレオン戦争が終了しウィリアムは9年間いた軍隊から除隊された。ところが除隊になった場所はイングランドのニューカッスル、そこから彼はダフタウンまで510kmを徒歩で帰宅した。なんとも不屈の体力、精神力の持ち主だった。ダフタウンで彼は仕立屋を再開、歳を経てからは‘オールド・ウォタールー’として皆の敬愛を集めた。

グラント少佐の肖像:グレンフィディック創立者のグラントは何事にも積極的だった。軍隊にも兵卒として志願、予備役では最高位の少佐まで昇進した。(Courtesy: William Grant & Sons Ltd. Media Library)

モートラッハ蒸溜所:ダフタウンで最も古い蒸溜所。ウィリアム・グラントは独立してグレンフィディック蒸溜所を建設する以前、この蒸溜所で20年間働いた。写真の円形のタンクには蒸溜釜から出たウイスキーの蒸気を冷却するワーム(蛇管)が水に浸漬してある。訪問したのは5月始めだったが、ちょうど桜の季節だった。

2.ウィリアム・グラント

グレンフィディックの創設者ウィリアムは1839年に‘オールド・ウォタールー'ウィリアムを父親として産まれた。小学校時代から利発で、先生から度々 ‘よく出来た子へのご褒美'として釣りにつれていってもらった。学校を終るとウィリアムは靴職人の見習になるが、靴屋の将来性に見切りをつけ、ダフタウンの石灰鉱山会社の事務員として働いた。彼に大きな転機が訪れたのは1866年、彼30歳の時である。当時ダフタウンにあった唯一の蒸溜所、モートラッハ蒸溜所が事務員を募集していると聞き、ウイスキーのことはなにも知らなかったが、応募して採用された。彼のこのウイスキーとの遭遇が無かったら、グレンフィディックは産まれていなかった。

モートラッハ蒸溜所で働き始めて数年後から、グラントは次第にウイスキーへの関心を高め、将来はいつか自分の蒸溜所を持ちたいと思い始めた。ウイスキーつくりに関わる技術を積み重ねると同時に、決して高給でなかった給与の中からこつこつと貯蓄に励み将来に備えた。若くして結婚して子沢山(結局は9人!)、生活は苦しかったが、これを支えたのは奥さんのエリザベスだった。

モートラッハ蒸溜所で働き始めて20年たった1886年、ウィリアム・グラントは独立を決意する。たまたまカーデュー蒸溜所の設備が売りに出されたのが契機になった。彼はカーデュー蒸溜所の中古の粉砕機、それを駆動する水車、ポット・スティルを購入し、グレンフィックで蒸溜所の建設に着手した。資金が乏しかったので、建物をつくる石工一人をのぞき、後は家族全員で建設に当った。この時は子沢山が戦力になった。建設現場に毎日家から食事を運んだのは10歳の末娘メタちゃんだった。苦しい毎日だったが、翌年1867年のクリスマスに最初のウイスキーが蒸溜器から滴った。

現在のグレンフィディック蒸溜所

グレンフィディック蒸溜所の醗酵の様子:非常に清澄な麦汁を醗酵させているので、最盛期にはこのように盛大に泡が立ち、フルーティ-、若草様のフレーバーを醸しだす。

グレンフィディック蒸溜所第2蒸溜室:多くの蒸溜釜が並んでいて壮観。蒸溜釜は小型で直火加熱法を採用し、ウイスキーに複雑でしっかりした風味を与えている。

グレンフィッディックはスコットランド最大のモルト蒸溜所である。年間に蒸溜されるモルト・ウイスキーは10,000kl(アルコール分100%換算)で、他の大型蒸溜所の2倍の能力がある。しかしながら、その製造工程は極めてオーソドックスだ。

1. 原料-かすかにピーティングした麦芽。
2. 仕込-1回10トンの仕込槽が2基。1回の仕込から麦汁50klを採取して醗酵槽へ送る。丁寧に濾過するので麦汁は清澄である。
3. 醗酵槽-容量50klの木桶(Douglas Fir-ダグラス樅)24基。醗酵時間は72時間の長時間醗酵を採用。
4. 蒸溜-初溜釜は9kl(13基)、再溜釜は4.5kl(15基)といずれも小型。加熱はガスによる直火。
5. 貯蔵-アメリカン・ホワイト・オークのPlain Wood及びにSherry Wood。
6. ソレラ方式の後熟-シングル・モルトは大桶で8ヶ月後熟。この大桶から瓶詰に払いだすときは全量の5分の一程度だけを抜き取り、空いたところへは又ウイスキーを補充する方式。フィノ・タイプのシェリーのソレラ・システムと同じ。香味の滑らかさと品質の安定性をもたらす。
7. 蒸溜所内の瓶詰工場-最後の製品になるまで品質に責任をもつ方針である。

このようにして作られたグレンフィディック・シングル・モルトは、やや軽めで洗練された風味の典型的なスペイサイド・スタイルのシングル・モルトである。 ‘すっきりしている、フルーツ、若草、フレッシュ、キャラメル様の甘い香り'などと表現されるが、その親しみやすい香味は世界中で支持され、世界でもっともよく売れているシングル・モルトである。全スコッチ・シングル・モルトの5本に1本はグレンフィディックだと言われている。

挑戦心

保守的といわれるスコッチ業界にあって、グレンフィディックは新しい挑戦をするので有名である。1960年代に、シングル・モルトを地元だけでなくイングランドや世界に売り出した時には、‘飲み難いシングモルトがそんなところで売れる訳が無い'と回りの失笑をかったが、果敢な挑戦が現在のシングル・モルトの世界を切り開いた。外来者には門戸を固く閉ざしていた蒸溜所にゲスト・ルームを設け、見学者に広く開放してシングル・モルトへの関心を高めたのもグレンフィディック蒸溜所が最初である。グレンフィディック蒸溜所への見学者は年間10万人を超え、波及効果による地元への貢献も大である。グレンフィディックには、創業者ウィリアム・グラントや‘オールド・ウォタールー'から引継いだ挑戦心と不屈の精神が生き続けているようだ。

紙面がないので今回は触れられなかったが、グレンフィディック蒸溜所の隣には同じくグラント社のバルヴェニーとキニンヴィー蒸溜所がある。別の機会にご紹介したい。

1.Dufftown. Dufftown 2000 Ltd.
2.www.dufftown.co.uk
3.www.glenfiddich.com
4.Glenfiddich - pioneer of single malt. Frank Robson. The Brewer International. Volume 2. Issue 11, 2002.
5.The Life & Times of William Grant. Francis Collinson. William grant & Sons Ltd.1979.