ロッホ・カトリン:グラスゴーから車で北へ約1時間のところにある。写真は11月中頃訪問したときに遊覧船の上から北西方向を撮ったもので、湖は清冽な水を満々と湛えていた。観光地としても人気がある。
18世紀中頃のグラスゴー・スラムの袋小路:周辺部やアイルランドから市に流入してきた移住者の多くが、このような袋小路にある安アパートに住んだ。衛生状況は劣悪だった。(写真出典:SCRAN) *
エジンバラのアンドリュー・アッシャーがブレンデッド・ウイスキーを創始したのは1860年のことであったが、その後多くのブレンダーが続々と誕生した。それらのブレンダーの名を冠したブランドの多くが、現在もスコッチ・ブレンデッド・ウイスキーの代表的な銘柄として存続しているのは我々の知るところである。ブレンダーは、蒸溜所からモルトやグレーン・ウイスキーを仕入れ、貯蔵し、熟成のころ合いを見てブレンド・瓶詰めして自社のブランドを付して顧客に販売した。そのブレンダーの大半が貯蔵庫、ブレンドや瓶詰工場を置いたのはグラスゴーであった。バランタイン、ティーチャーズ、ブラック・アンド・ホワイト、ホワイト・ホース、ホワイト・アンド・マッカイ、ローソンなどである。
ブレンダーがグラスゴーに集中した理由は、19世紀後半のグラスゴーが繁栄の絶頂期で人口も60万人を超え、市場として重要だったことと、クライド川の港が整備されてウイスキーの輸送にも便利という経済的な要因が1番だったが、もう1つの理由として19世紀中頃に当時のグラスゴー市長のロバート・ステュワート(Lord Provost Robert Stewart)が市の北方約50kmのカトリン湖から水を引き完成させた市水道の水質が極めて優れていて、ブレンドには最適だったことがあげられる。
製品ウイスキーの中味の構成は、原酒のアルコール分を60%、アルコール度数40%の製品全体を100とすると、アルコール分が40、原酒由来の水分が 27で残りの33はブレンドの最終工程で度数を調整するために加えられる水で、その水質は品質に大きな影響を与える。有害物質を含まない、細菌に汚染されていない、異味異臭がないのは当然だが、ミネラル分もウイスキーの成分と反応して沈澱や濁りの原因となるのであってはならない。水処理技術の発達していなかった当時この条件に極めて近かったのがグラスゴーの水であった。外洋を航海する船舶は競ってグラスゴーで給水したそうだが、美味しいのと長旅でも腐敗しなかったからである。
レディー・ウエル(Lady Well)跡:グラスゴー大聖堂近くにあった公共井戸跡にある記念碑。この井戸のすぐ上の丘は墓地になったが、井戸は19世紀後半まで使われ閉鎖されたのは公共井戸ではもっとも最後だったという。
グラスゴーで、市の北方にあるカトリン湖から水を引き、各家庭に給水する水道が整備されたのは1860年である。安全な水を潤沢に使える現在からは想像も難しいが、水道が完成するまでのグラスゴーの水事情は悲惨なものだった。19世紀に入ると市の産業は急速に発展し、仕事を求めてハイランドやアイルランドから流入する多くの移住者で人口は急増したが、その多くはスラム街に居住した。不潔な露地奥の借家一部屋に数人がごろ寝というひどい状態が当たり前だった。
水道はなく、人々は市内に30数ヶ所あった公共井戸や、水の入った大桶を馬車に載せて売りに来る商人から手桶やバケツで水を買った。公共井戸は現在残っていないが、一箇所だけその記念碑が残されている。グラスゴー市の発祥となった大聖堂の東側の丘は1831年から墓地になっているが、その丘のすぐ下にあるレディー・ウエル(聖母マリアの井戸)跡である。古くからキリスト教社会では、井戸や泉は敬愛の念で聖母マリアへ献呈されたものが多い。
市民の水の水源は、地下から湧いている井戸以外、主としてクライド川で、水を蒸気エンジンで汲み上げていた。下水が整備されていなかったので汚染されており、人口増加に伴って年々悪化していた。劣悪な衛生状態もあり、グラスゴーは1838年と1848年の2回コレラの大発生に見舞われ各数千人以上が死亡した。最も多くの死者を出したのは当然ながら貧困地区であった。この惨状に立ち上がったのが前述のステュワートである。19世紀中頃で30万人を超えた人口は急増を続けていて、このままでは更に深刻な伝染病の発生が懸念された。安全な水を市民に供給することは焦眉の急であった。
バルフロン(Balfron)村近くのエンドリック川を越える導水路:導水路は地下に埋設されている部分が多く見えにくいが、このように川を越えるところは太い鉄パイプ構造となっていて見ることができる。
マグドック貯水池の導水路の出口:ロッホ・カトリンの水は41kmの導水路を流れてここで貯水池に流入する。カトリン湖水道事業の第1期工事は1859年に完成し、1860年から市民への供給を始めた。
ケルヴィン・グローヴ公園にあるステュワート記念の噴水:1872年に建設された。モニュメントの上の像は「湖上の美人像」である。
市に調査を依頼された英国の土木技師ベートマン(J. F. Bateman)は水源としてカトリン湖を推薦した。高地にあるこの湖は自然豊かで広大な集雨域をもち、水量豊富で水質は優れていた。事業はカトリン湖からグラスゴー北西郊外のミルガイ(Milngavie)の貯水池まで40km以上の導水路、貯水池から総延長40kmの幹線送水管、更に74kmの分配管を引くという壮大な計画であったが、ステュワートの提案は国会で2度も否決の憂き目に会う。これで挫けなかったのがこの人の偉いところで、1855年の3 度目の提案で事業は承認された。
カトリン湖は、ロッホ・ローモンドとトロサックス(Trossachs)国立公園の中にある風光明媚な湖である。スコットランドの国民作家ウォルター・スコットは1810年に「湖上の美人」(Lady of the Lake)を出版したが、この叙事詩の舞台となったのがカトリン湖である。西側がやや北に振れた細長い湖で、東西約13km、南北方向は最も狭いところで約1kmである。氷河期に形成された湖なので、水深は最深部で180mと深い。
導水路の建設に際してカトリン湖の出口はダムで嵩上げして湖の貯水量を増やし、送水路は湖の西南岸からミルガイの貯水池まで土地を削り、トンネルを掘り、岩盤を穿ち、橋をかけて建設された。40kmの導水路で1日当たり24万トンの水を淀みなく流すには測量、地理、地質、水理、土木等に非常に高度な技術が要求された。導水路は高さ、幅とも2.5m、自然流下でポンプは設けられていないが、当時の土木技術の高さに敬服を禁じ得ない。導水路は3年半かけて完成し、1859年ヴィクトリア女王によってオープンされた。
導水路のグラスゴー側の終点はミルガイの貯水池である。ミルガイはグラスゴーの富裕層に人気がある高級住宅地で、貯水池と水処理施設は町の北側にある。最初1859年に建設されたマグドック(Mugdock)貯水池と、その後1885年にもう一本ロッホ・カトリンから引かれた導水路の建設に合わせて建設されたクレイグミラー(Craigmiller)貯水池の2つの貯水池が隣接している。貯水池の周囲は一周すると1時間以上かかるが、遊歩道として人気がある。
完成から150年間使われてきたこの水道施設は、2002年から3年間をかけて近代化が行われた。水質は優れていたが、EUの共通水質基準に従って殺菌剤の分解物や新たな微生物汚染の可能性に対応するためである。カトリン湖周辺の農場で家畜の放牧は禁止となり、それまでいた20,000頭以上の羊は他の場所に移動させられた。
グラスゴーの水道水は軟水で非常に美味しいが、ミネラル分は除去されていないので、ウイスキー会社はブレンドする前にイオン交換でミネラルを除き、臭気は念のために活性炭で除去するなど磨きをかけてからブレンドに使用している。
都心から2.5kmほど西、ウエスト・エンドといわれる地区にケルヴィン・グローヴ(Kelvin Grove)公園がある。19世紀中頃に急増する市民に憩いの場を提供する目的で建設された。ケルヴィン川の両岸にまたがり、ギルモア・ヒルにあるグラスゴー大学を見上げるところにあり、園内には有名なケルヴィン・グローヴ美術・博物館がある。いくつかのモニュメントがあるが、その中で最も大きいのが「ステュワート記念の噴水」で、グラスゴーに近代的な水道施設を建設したステュワートの業績を記念して1872年につくられた。
1. Loch Katrine and The Steamship Sir Walter Scott. Michael Pearson, published by The Steamship Sir Walter Scott Trust Limited.
2. Kelvingrove Park :Glasgow City Council
3. Robert Stewart :Memoirs and portraits of 100 Glasgow men
4. Aqueduct :1902 Encyclopedia
5. Scran
6. Katrine Water Treatment Project, Glasgow, United Kingdom :Water Technology Net
7. The Old Closes and Streets of Glasgow :University of Glasgow:Library
*1866年にグラスゴー市は、環境改善のためスラム街の取り壊しを決めたが、記録保存の目的で写真を残すことにした。この写真は1868年から1871にかけて市から委嘱を受けたグラスゴーの写真家トーマス・アナン(Thomas Annan)が撮影したものの一枚である。アナンはカトリン湖水道事業の写真も多く残していて、いずれも今では貴重な記録として価値が高い。関心がおありの方は次ページの参考資料の7をご参照ください。