ロンドンデリーの城壁とブッチャーズ・ゲート:旧市街の中心部は17世紀に造られた城壁がほぼ完全に残っている。1689年には城壁の中に籠ったプロテスタント側は105日に及ぶアイルランド軍の包囲攻撃を耐え抜いた。
ロンドンデリー * の歌'この広く知られるアイルランド民謡が最初に記録に上ったのは1855年で、アイルランドの古い曲を編纂した曲集の中に'曲名不詳、ロンドンデリーのエアー(Air=調べ)'としてロンドンデリー近くのリマヴァディー(Limavady)に住むジェーン・ロス(Jane Ross)が登録した時である。その為'ロンドンデリーの歌'としてこの名が残った。このやや哀愁を含んだ美しい旋律には後に'ダニー・ボーイ(Danny Boy)'の歌詞が付けられ世界中にヒットしたが、この曲にはヒット曲以上に人の心を打つものがあり、アイルランドの第2の国歌、海外に移住したアイルランド人の望郷の歌でもありダイアナ妃の葬儀でも歌われた。ロンドンデリーの町にはずっと以前から何となく憧憬に似た心情を持っていたが、これは多分幼少の頃に聞いた'ロンドンデリーの歌'の旋律がずっと心に残っていたからだろう。そのロンドンデリーにやってきた。
ロンドンデリーはイングランドによる北アイルランドの植民地化が始まった17世紀前半にロンドンの商工業者が組織したプロテスタントの入植者によって建設された町である。町の防御につくられた城壁が今でもほぼ完全に残っていて、Wall City(城壁の町)とも呼ばれる。
現在ロンドンデリーにウイスキーの蒸溜所はないが、過去には3つの蒸溜所があり、ダブリン、ベルファースト、コークと並ぶアイリッシュ・ウイスキーの一大生産地であった。
ウォーターサイド蒸溜所跡:フォイル川東岸の傾斜地にあったこの蒸溜所は、原料を丘の上から取り入れると、工程は重力を生かして順次下方へ移動させていった。この貯蔵庫と思われる建物は現在でも使われていて、ジム、パブ、ディスコ等が入居している。
蒸溜所は、市の中心街からフォイル川を東に渡った対岸にあり、現在でも貯蔵庫の一部が残っている。1820年頃に始まった蒸溜所であったが、バーナードが訪問した1885年頃は、市内でもう一つのアビー・ストリート(Abbey Street)蒸溜所を経営していたワット(Watt)がオーナーであった。
ウォーターサイドはポット蒸溜だけを行う蒸溜所であった。バーナードによれば、穀物の貯蔵量4,600トン、麦芽製造設備は16トンの浸麦タンク3基、フロアー・モルティング5床、キルン(乾燥塔)5基であった。麦芽の粉砕用に石臼4基、直径5m、深さ2.7mの仕込槽、73klの発酵槽7基、蒸溜釜は36klの初溜釜、2回目の蒸溜を行う20klと10klのロー・ワイン・スティル、それと容量は不明だが3回目の蒸溜を行うスピリッツ・スティルが1基あったという。年間蒸溜能力は、推定だが 100%アルコール換算で1,000kl程度のモルト蒸溜所だったようだ。貯蔵庫には20,000丁の樽が貯蔵されていて、ウイスキーはアビー・ストリート蒸溜所のグレーン・ウイスキーとブレンドし製品にされた。
アビー・ストリート(Abbey Street)蒸溜所
アビー・ストリート:名前の由来は、かってこの地にアビー(修道院)があったことに由来するそうだ。アビー・ストリート蒸溜所は1920年まで存在したが完全に姿を消し、今は住宅とオフィスビル、スポーツ・センターが立っている。
この蒸溜所は、市の中心の城壁の西側、ボグサイド(Bogside)といわれる地域のアビー・ストリートにあった。19世紀後半には全英国内で最大の規模を誇った蒸溜所だが、その遺構はタウンゼンド(William Townsend, 'Lost Distilleries of Ireland'の著者)の表現によれば"煉瓦1つ残らず消滅した"。 現地は住宅とオフィスになり、蒸溜所を想起するものは皆無である。
この蒸溜所、物的遺産は皆無だがその栄光の歴史を語る物語は豊富である。最初に蒸溜所が出来た時期は資料によって異なるが、18世紀末にはここにあった僧院に蒸溜所があったという。1822年にはジョン・スミスが小さな450リッターの釜で操業した。
旧アビー・ストリート蒸溜所の瓶詰風景:蒸溜所は、最盛期には全英国で最大規模と言われ、200人が雇用されていた。台の上には製品ターコネルの瓶が並んでいる。(フリー・デリー博物館から受領)
この蒸溜所を、一世を風靡した規模に発展させたのはワット(Watt)一族である。ワットは18世紀にロンドンデリーでワインとスピリッツを扱う酒店を営んでいたが、1830年頃アビー・ストリート蒸溜所の経営に参加、後に蒸溜所の成長に伴い経営権を取得した。ワットの挑戦(或いは当時はギャンブルと見られていた)は1833年にカフェー・スティルを導入したことである。カフェーがこの連続式蒸溜機の発明で特許を与えられたのが1830年であるのでその直後であり、アビー・ストリートでの設置はカフェーが直々に監督した。
バーナードが訪問した1885年頃はこの蒸溜所の全盛時代で、原料穀物の貯蔵量は9,000トン、原料のメイズ(とうもろこし)乾燥用のキルンは1日に30トンの能力があり、1週間に64トン能力の発芽床と更にもう1つの発芽床があり、それらに付随する大型の乾燥用のキルンを備えていた。アビー・ストリート蒸溜所は、ポット・スティルによるモルト・ウイスキーも蒸溜したが主力はグレーン・ウイスキーであった。
グレーン・ウイスキーの主原料のメイズと糖化用の麦芽は別々に仕込まれた。メイズは粉砕し木製の仕込槽で、麦芽は3 基のマッシュタンで、各々スラリー(粥状)にした後メイズを麦芽の仕込槽に混合して糖化した。糖化の終わったスラリーは別の濾過槽で濾過し、濾液は冷却後発酵槽に送られた。15基あった発酵槽は大型で、各々の容量が123klであった。
発酵の終了したもろみは2基のカフェー・スティルで蒸溜された。巨大なカフェー・スティルが設置されていた建物は7 階建に相当し、その高さは市内で最も高かった大聖堂のタワーに匹敵したという。年間の蒸溜の能力は5,200klアルコールであった。カフェー・スティルの精溜塔から分離したフーゼル油は、蒸溜所内の照明用ランプの燃料に使われ、燃えるフーゼル油は特異な臭気を発した。蒸溜したウイスキーを熟成させる貯蔵庫は5棟あり、30,000樽が貯蔵されていた。
ターコネル・アイリッシュウイスキーの古いラベル:ワットが馬主だった栗毛のターコネルがゴールするシーンは製品のラベルになった。'ターコネル勝利!'とある。
ワットが経営するロンドンデリーのウイスキーは大成功を収める。1887年にはアビー・ストリート蒸溜所はアイルランドで最大規模にまで拡大した。3つの主要ブランド‐ターコネル(Tyrconell)、フェーバリット(Favorite)、イニショーウェン(Innishowen)- はイングランド、アメリカ、カナダ、ナイジェリア、西インドで成功した。特にアメリカでは禁酒法施行まで最大のシェアーを誇った。
1876年のことである。アイルランド・クラッシックに出場したワット所有の栗毛の競走馬'Tyrconell'が 100対1というオッズで優勝したのである。驚愕歓喜したワットは早速記念ラベルを付した'Tyrconell'を発売した。Tyrconellがゴールする様子を描いたラベルは現在の製品にも使われている。
1903年、会社はベルファーストにあったアヴォニエル(Avoniel)とアイリッシュ・ディスティラリー(Irish Distillery Ltd、コンズウォーター蒸溜所)の2つの蒸溜所と合併し、ユナイテッド・ディスティラリー・カンパニー・リミッテッド(United Distillery Company Ltd, UDC)になる。ブランド・ビジネスに加えて数基のカフェー・スティルを操業し、アイリッシュとスコッチのブレンダーにグレーン・ウイスキーを供給する大サプライヤーとなった。
順風だった経営に暗雲が差したのはアメリカの禁酒法もあるが、グレーン・ウイスキーの大手だったスコットランドの D.C.L.(The Distillers Company Ltd)との確執であった。両社間でいくつもの契約が交わされたが、最終的にはD.C.L.に併合されアビー・ストリートは1925年に閉鎖された。現在市販されている Tyrconell Single Malt はクーリー社が再発売したものである。
ボグサイド:ロンドンデリーの城壁の上から西方にあるこの地区は、'ザ・トラブル(The troubles)'といわれる北アイルランド紛争で何度も両サイドが衝突し多くの死傷者をだした。
アビー・ストリート蒸溜所のあった場所はボグサイドといわれ、旧市街を囲む城壁から見下ろす西側にあり、ここは何度となく北アイルランド紛争の発火点になった。1960年に入って、長年政治的にも経済的に差別を受けてきたカトリック住民の公民権運動のデモとそれを統制しようとした警察、軍が何度も衝突を起こした。1969年8月の'ボグサイドの戦い'と、中でも1972年1月30日の日曜日に起こった'血だらけの日曜日 (Bloody Sunday)'では非武装の市民側に英国軍が発砲、13人が死亡する惨事となった。ボグサイドには、ここで展開された公民権運動のシーンを描いた壁画が多く描かれていてアイルランド紛争の悲劇を伝えている。
ボグサイドの壁画:この地区で起こった公民権運動と紛争に関わる出来事を記録に残す目的で3人の画家が作成した全部で12枚の壁画の1つ。“1人1票を!"“職業における宗教差別をやめろ!"とある。
17世紀、エリザベス1世の時に始まった北アイルランドの植民地化から400年に亘って拗れに拗れた北アイルランド問題も関係者のそれこそ命がけの努力で1998年4月10日解決に向けての合意に至った。奇しくもこの日はイースター前のGood Fridayであった。
第51章から本章まで6回に亘ってウイスキー発祥の地とされるアイルランドとアイリッシュ・ウイスキーについて記した。歴史を紐解いてみると、よく言われる'アイリッシュは未発芽の原料を使用し、麦芽の乾燥にピートを使用しない、蒸溜はポットで3回蒸溜する'は必ずしもその通りではなく、もっと幅広いつくり方がされてきたことが分かる。それにしても、ウイスキーの始祖と言われるアイリッシュ・ウイスキーがその最盛期から政治、宗教、技術革新、スコッチとの苛烈な競合などの荒波に翻弄され、消滅寸前にまで至りながら立ち直ってきた歴史は大ドラマを見るようであった。
1. Alfred Barnard, The Whisky Distilleries of the United Kingdom, Birlinn Limited, 2008.
2. Brian Townsend, The lost distilleries of Ireland, Neil Wilson Publishing, 1997.
3. Londonderry Air :Wikipedia-The Free Encyclopedia
4. Derry :Wikipedia-The Free Encyclopedia
5. Limavady :Wikipedia-The Free Encyclopedia
6. Northern Ireland :Wikipedia-The Free Encyclopedia
7. "Watt" was brewing in bygone Derry :Irish Identity
8. The Tyrconnell Whiskey - International award winning single malt Irish Whiskey
9. Belfast Agreement :Wikipedia-The Free Encyclopedia
*現在、ロンドンデリーは市の公式名称であるが、1613年にそれまでのデリー(Derry: アイルランド語でDoireで意味は樫の木) から、この町を建設したロンドンのギルドによってロンドンデリーに改名された。しかしながら市の名称に関しても論争が絶えない。ロンドンデリーのある州の名前はデリー州であるし、アイルランド共和国や共和国寄りの人はデリーを使い、新英派はロンドンデリーと呼んでいる。ロンドンデリーへ向かう道路標識の多くでLondonderryの表示のLondonが白ペンキで塗りつぶされていた。本稿では公式名称のロンドンデリーに従った。