1885年頃、 ロンドンの酒類業界向け週刊誌ハーパー(Harper’s Weekly Gazette)で秘書官をしていたアルフレッド・バーナード(Alfred Barnard)は、雑誌を購読してくれているワインやスピリッツ業界関係者向け記事として、全英のウイスキー蒸溜所全てを訪問し、その訪問記を毎週連載することにした。当時の全英(United Kingdom)はイングランド、スコットランドとアイルランドを含み、バーナードが訪問したウイスキー蒸溜所は161ヶ所、その内訳はスコットランドが129、アイルランドが28、それとイングランドが4である。
バーナードが訪問したイングランドのウイスキー蒸溜所は、ロンドンとブリストルの一箇所ずつ、それとリバプールの2蒸溜所である。当時のリバプールの二ヶ所の蒸溜所は大規模で盛業を誇っていたが、20世紀始めにはスコッチとアイリッシュの陰に埋没して消滅し、ウイスキー史から完全に姿を消してしまった。スコッチやアイリッシュの蒸溜所が、消滅してしまった後も人々の関心を集め研究対象になるのに対して、イングリッシュ・ディスティラリーは人々の記憶から消え、バーナードの記録以外の資料は希薄である。いや、研究されていないと言うのが正確だろう。リバプールに有った2つの蒸溜所、ボクソール(Vauxhall)蒸溜所とバンク・ホール(Bank Hall)蒸溜所についてすこし探索してみた。
リバプール市博物館:リバプール・ライム駅のすぐ近く、 博物館、図書館、美術館などが立ち並び文化コーナーとして知られている地区にある。図書館は、現在新築工事が行われているため、この博物館に仮入居していた。
まず何処にあったのか、その現状はどうなっているか知りたいと思ったが、バーナードの本(‘週刊ハーパー’での連載のあと1887年に単行本として発行されたもの。現在は復刻版が出されている)にも両蒸溜所の所在所の詳細はなく、ボクソール蒸溜所は文中にボクソール・ロード、都心から2マイル、バンク・ホール蒸溜所はサンドヒルズ、リバプール(Sandhills, Liverpool)、都心から3マイルとあるだけである。ボクソール・ロードもサンドヒルズも市内から北方向と見当をつけたが、現在の地図には当然だが蒸溜所は見当たらない。こんな時に助けになるのが1900年頃の陸地測量図で、この地図で蒸溜所とその所在地を見つけ、現在の市街図と照らし合わせて場所を特定することにした。
リバプール市の図書館はリバプール・ライム駅のすぐ近くにある。1799年開設で公共の図書館としては英国で最も古い。現在は新館を建設中で、図書館は博物館の2階に仮入居している。受付で目的を告げると測量図の在りかを教えてくれたので、地域別に大きな引き出しに入っている縦横1.5mくらいの地図を取り出し、Vauxhall DistilleryとBank Hall Distilleryの記載がないか丹念に探す。小一時間かけて数枚の地図を調べたところ幸い両蒸溜所が記入されていて、その場所を特定することができた。
バーナードが訪問したボクソール蒸溜所はグレーン蒸溜所で、オーナーはグラスゴーのA. Walker社。創立されたのは1781年というから、古さでは現存する最も古いスコッチの蒸溜所のGlenturret(1775年)、Bowmore(1779年)、Strathisla(1786年) (カッコ内は創立年)と肩を並べる。創立時は、コフィーによって連続式蒸溜機が発明される以前だったので、グレーン・ウイスキーもポットで蒸溜していたと思われる。
バーナードは、駅近くのアデルフィ・ホテルから当時はまだ珍しかったタクシーで蒸溜所を訪問している。彼による記録の要旨は次の通りである。「原料にとうもろこし、麦芽とオーツを使用し、仕込槽は直径7.5m、深さ2.1mのものが2基、90klから180klの発酵槽が18基、コフィー・スティルが3基で年間生産能力は9,000kl、自前の樽工場を持ち、貯蔵庫には約8000丁の樽が貯蔵されている。軽いグレーン・ウイスキーは熟成が速く、5-6年で古いブランデーと同等の熟成度に達するという。また発酵槽からは酵母を回収して製品として国内だけでなくヨーロッパに輸出しているが、その高品質はつとに有名である。」
蒸溜量に対して貯蔵・熟成されている量が少ないので、製造されたグレーン・スピリッツの大半がジン用のスピリッツやメチル・アルコールを添加して変性アルコールとして販売されたと思われる。熟成中のウイスキーは自社ブレンドに使われたのか、どのようなブランドだったのか、あるいは他社の樽だったのか不明である。
旧ボクソール蒸溜所跡: 右手の建物は体育館だが、それ以外は空地で蒸溜所を思わせるものは何も残っていない。かって原料や出来たウイスキーを運ぶのに使われた手前の運河には数羽の鴨がのんびりと泳いでいた。
19世紀終わり頃の測量地図で場所を特定したボクソール蒸溜所の跡地に行ってみることにした。地理不案内だし、両蒸溜所とも方向が同じ、距離も遠くないので私もタクシーで回ることにした。運転手に目的を言うと、蒸溜所の事は知らないが場所は分かると言う。10分も走ると目的地に着いたのでしばらく待ってもらって、元蒸溜所跡地を歩いて一周することにした。結構広い敷地の一画にはスポーツセンターが建っているが、その他は広い芝生が広がっているだけで元蒸溜所を思わせるものは何も見当たらない。敷地の西側は運河に接していて物流は便利だったと思わせる。周辺はすっかり再開発されて瀟洒な住宅街になっていた。
バーナードは、ボクソール蒸溜所を訪問した翌日にバンク・ホール蒸溜所を訪問している。この蒸溜所の創立は1790年というから、ここも結構古い時代に建てられている。場所はボクソール蒸溜所から1マイルほど北の港湾地帯にある。蒸溜所の設備能力は、バーナードの記録では「穀類貯蔵庫と製麦設備があり、醸造設備は石臼式粉砕機4基、ローラー・ミル1基、全部で5基の仕込槽があり、その大きさは12klから135klと種々、77klから160klとこれまた大きさの異なる発酵槽が12基、2基あるポット・スティルは初溜釜が18kl 、再溜釜が12kl、コフィー・スティルが2基あり、各々一時間当たり18klのもろみが蒸溜できる。年間生産能力は6,750klで従業員は90人」とある。
この蒸溜所の製造品目は、モルト・ウイスキー、グレーン・ウイスキー、ニュートラル・スピリッツとメチル・アルコールを加えた変性アルコールで、ボクソール蒸溜所と同じように多角化蒸溜所であった。
旧バンク・ホール蒸溜所跡: 手前の鉄柵で囲まれた所に原料貯蔵庫と製麦工場があったが今は廃材置場になっている。後方、窓の無い大きな建物は現在はリバプール市の資料庫で、ここに元蒸溜所の主工場があった。
バンク・ホール蒸溜所の跡地は相当荒廃した工業地帯にあり、バンク・ホール通りに面した主工場跡には窓のない大きな建物が建っていた。何の建物か知りたいと思い、入り口らしいところで何か表示が無いかきょろきょろしていると、内側からドアが開き、中年のガードマンが怪訝な表情で現れ、「お前はいったい何をしているのか」と聞く。この建物は何か、現在は何に使用されているのかと聞くと、「何故そんなことを聞くのか」と一層疑わしそうに詰問する。自分は日本のウイスキー研究家で、ここは100年前にバンク・ホール蒸溜所があった所と思うが現在どうなっているか知りたいと思って来た、というとやっと表情が緩み「そうだ、ここはバンク・ホール蒸溜所のあったところで、今はリバプール市の資料収蔵庫である」と教えてくれた。どうも、文化財狙いの窃盗が事前調査をしていると思われたようである。
旧穀物貯蔵庫:マージー河畔の港湾にあるこの大きな建物は、元は穀類の貯蔵庫で、アメリカから輸入されたとうもろこし等を貯蔵していた。距離的に近かったボクソール、バンク・ホール両蒸溜所は、ここから原料を運んでいた。改造されて現在は高級マンションに生まれ変わった。
この建物の北側の通りは、バーナードが「主工場から通りの上に架けられた回廊を通って製麦工場と貯蔵庫へ行った」と記述したジュニパー・ストリートで、製麦工場跡はフェンスに囲まれ、建設関係の残材置き場になっていた。
市内への帰り道は、港湾地帯を通ることにした。この道路沿いには港が栄えた時代の船着場や倉庫の廃墟が残されていて、かっての栄華をしのばせる。その一つが旧穀物貯蔵庫跡で、新大陸や各地から運ばれてきたとうもろこし、大麦、小麦、オーツなどを貯蔵し、製粉所、ビール工場、蒸溜所に供給していた。バーナードが文中で、「蒸溜所は、公共の穀物貯蔵庫に近いので大きな貯蔵庫を持たなくて良い」と記している。穀物貯蔵庫としての機能は失ったが、その建物は高級マンションに改造されて現在でも使われている。
リバプールの蒸溜所はいつの時代に閉鎖されたか?19世紀終わりからのウイスキー不況、酒税の増税、合衆国の禁止法で多くの蒸溜所が倒産や買収の憂き目にあっている。ボクソール蒸溜所の親会社はグラスゴーのアーチバルド・ウォーカー社(Archibald Walker & Co.)で、ボクソール蒸溜所の他、グラスゴーのアデルフィ蒸溜所(Adelphi)とアイルランドのリメッリクにあった蒸溜所も所有していたが経営困難に陥り、ボクソール蒸溜所は1910年に、リメリック蒸溜所もほぼ同じ時期にDCLに買収されている。閉鎖の時期は異なるが、最後まで残っていたアデルフィ蒸溜所のグレーン・プラントも1932年には閉鎖された。
ボクソール、バンク・ホール両蒸溜所とも、どのようなブランドをもっていたか、どのようなウイスキー・ビジネスをしていたのか、閉鎖にいたる経緯は不明である。当時の登記簿、新聞や業界紙等を丹念に拾えば何か分かる可能性はあるが、このためにはリバプールに数ヶ月滞在する必要があるだろう。
キャバーン・クラブ:リバプール市内のマシュー・ストリートにある。ヒットする以前のビートルズはここで腕を磨いた。今も世界中のビートルズ・ファンが大挙してやってくる。ビートルズの後、Stevie Wonder, Rod Stewart, Hollies 等もここで演奏した。
私はビートルズ世代ではないし、音楽はどちらかといえばクラシックとジャズ派だったが、1970年頃からロックやポップを少しだが聴き始め、LPレコード(CD以前である!)を何枚かを購入している。ボブ・ディラン、サイモン&ガーファンクル、ジミー・ヘンドリックス、エルトン・ジョン他のLPに混じってビートルズの「Let it be」,「Help」, 「Abbey Road」の3枚がコレクションにある。
ということもあり、リバプールに来た以上ビートルズに触れない訳にはゆかないだろう。解散から40年が経った現在でも、世界中から毎年何十万人もの人々がビートルズ詣にやってくるので、いくつものビートルズ観光ルートやスポットが設定されている。
世界で最も有名なバーと言えばマシュー(Mathew)ストリートのキャバーン・クラブ(Cavern Club)である。クラブといっても、食事のサービスもない普通のライブのパブであるが、ここはビートルズが1961年から1963年までの間に292回出演したことで知られる。尤も、ビートルズが出演していた当時の建物は1973年に取り壊されたが、1984年に以前の建物を極力忠実に模したレプリカが建てられ、そこに現在のキャバーン・クラブが入っている。
キャバーン・クラブ:キャバーン・クラブのステージ: このステージは、かってビートルズが演奏した時代のものを忠実に再現した。今でも名を成した大スターから、このような将来を夢見る若手までいろいろなグループが出演している。
立ち寄った時には、まだ無名のグループがビートルズ・ナンバーを演奏していたが、世界中から来た60歳以上と思われるビートルズ世代から、まだ酒は飲めないのではないか、と思われるティーンまでが演奏に合わせて歌ったり踊ったりしていた。ビートルズの音楽が、国境、時代、世代を超えていることを改めて実感した。
ビートルズのメンバーは何を飲んでいたか?メンバーは若く酒好きのアイリッシュ系が3人とスコッティシュ系が1人、演奏するのはバーやクラブ、音楽は体と魂をぶつけるロックとくれば酒抜きには考えられないがよく分からない。
ジョン・レノンのヒップ・フラスコ:ジョン・レノンの20歳の誕生日に、親友で初期ビートルズのメンバーでもあったサットクリフがお祝いに贈った。キャップが2つ付いている。ジョンが何を入れていたかは分からない(Beatles Story にて 写す)
リバプール観光の中心地アルバートドックにあるビートルズ・ストーリーは、まさにビートルズの歴史博物館で、メンバーの生い立ちから現在までを豊富な資料と巧みな展示で追い飽きさせない。そのコレクションの一つにジョン・レノンのヒップ・フラスコがあるのを見つけた。ジョンは実際にこのフラスコを使っていたか、何をいれていたか不明である。
参考資料
1.The Whisky Distilleries of the United Kingdom. Berlinn Limited, 2003
2.Old Ordnance Survey Maps, Kirkdale 1906. Lancashire Sheets 106.5 & 106.6. Alan Godfrey Maps.
3.Old Ordnance Survey Maps, Liverpool (North) 1906. Lancashire Sheet 106.10. Alan Godfrey Maps.
4.The Edinburgh Gazett, February, 11, 1910
5.http://en.wikipedia.org/wiki/The_Beatles_at_The_Cavern_Club
6.ビートルズ都市論。福屋利信、幻冬社新書。