1.Glenlee とRiverside Museum:クライド川に優雅な 姿で浮かぶ帆船グレンリー。背後の波型の屋根の建物は、2011年6月にオープンしたリバーサイド・ミュージアムである。この写真はクライド川の南岸、ゴーバンから撮影した。
今年3月のスコットランドは観測史上最も寒かった。比較的温暖なグラスゴーでも明け方の気温は氷点下をはるかに下回り、日中でも4-5℃まで。これではなかなか外出する気にならなかったが、1日素晴らしい好天になったのでクライド河畔に散歩に出かけることにした。今回の話題は、前2話が船の話、後2話はウイスキーにまつわる大事故の話である。
グラスゴー市内を東から西にほぼ真っ直ぐに貫いて流れているのがクライド川(River Clyde)である。全長176km、グラスゴーから約150km東南の山地に発し、西方20数kmで海に注ぐ。「クライド川がグラスゴーを造り、グラスゴーがクライド川を造った」と言われるように、グラスゴーの歴史と切り離せない。この日は、都心から数km西にあるリバーサイド・ミュージアム(Riverside Museum)から川沿いに都心まで歩くことにした。
グラスゴー大学のすぐ西側にある繁華街バイアーズ・ロード(Byers Road)から南へ クライド川に向かって十数分歩くと、リバーサイド・ミュージアム(Riverside Museum)に着く。2011年6月に元の交通博物館を移設し新装オープンした。自転車、バイク、馬車、自動車、機関車、船(模型)と空を飛ぶもの以外の歴史的なコレクションは充実している。その最大の展示物*が、博物館に接しているクライド川に係留してある貨物船のグレンリーである。(*正確に言えば、グレンリーは博物館の所有ではなくクライド海事トラストの所属である)
グレンリーは数奇かつ幸運な船歴を持つ。1896年に一般貨物を運ぶ貨物船としてクライド川やや下流のポートグラスゴーで進水した。総排水量約3000トン、3本マストの鉄鋼帆船である。1919年まで英国船籍で世界を航行し日本にも来航している。この間無事故ではなかった。座礁一回と、あわや座礁が一回、大嵐で帆や操帆装置をほとんど失い辛うじて近くの港にたどり着いたこともあったが沈没に至らなかったのは幸運であった。
1919年イタリアの会社に売却され、さらに1922年にはスペイン海軍が練習船として購入した。1981年にはしばらくセビリアで博物館として使われたが、徐々に忘れられ1990年にはスクラップとして売却されることになったのだが、この情報を得たクライド海事トラストが入札で買い取ることに成功した。1993年、グレンリーは進水後97年ぶりに生まれ故郷のグラスゴーに曳航され、以後6年をかけて修理・復元された。1998年にやや上流のヨーク埠頭で一般公開され、2011年6月のリバーサイド博物館の開館に合わせて現在の場所に移されたのである。
写真で見るグレンリーは優雅である。しかし、内部を見学すると100年前の貨物帆船の荷役、航海、船員の生活の様子がよくわかるのだがそれは過酷である。一般船員の居室は狭苦しい3段の蚕棚式ベッドが三方の壁際にあり、中央に大きなテーブルがあるだけである。居室には小さな厨房が連接していてすべての食事をつくったが、メニューのほとんどが塩蔵品の肉類、魚とパンだけでさぞ不味かったと思われる。このせいで、コックは船員に人気が無かったそうだが、これではコックも可哀そうである。
帆船での航海はさらに過酷である。特に年中嵐が吹いている喜望峰沖の航行はそれこそ命がけで、よくこんな船でここを何度も往復したと感心する。
グレンリーは現在ツーリスト・アトラクション、教育教材、イベント会場として使用されている。
2.ウイリアム・ヘンダーソン造船所の跡地:手前のケルビン川が、左側のクライド川本流に合流している地点である。ケルビン川の向こう側の空地が造船所のあったところでここで信濃丸が建造された。左遠方に見えるクレーンはグラスゴーで現存する唯一の造船所、ゴーバン造船所である
1905年5月27日午前4時45分、対馬南方でロシアのバルティック艦隊を発見する任を帯びて哨戒にあたっていた信濃丸が発した「敵艦見ユ」で日本海海戦の幕が開けたことはあまりにも有名である。
その信濃丸が建造されたのは、グレンリーが係留されているリバーサイド・ミュージアムの西側、クライド川に流れ込んでいる支流のケルビン川の対岸にあったウイリアム・ヘンダーソン造船所である。そのケルビン川の対岸には、今は使われていない荒地が広がっているが、ここで1900年に信濃丸が建造された。
当時のグラスゴーは世界の造船の中心地で、世界の新造船の20%がグラスゴーで建造された。信濃丸は当時の蒸気機関の最新技術であった3段膨張式蒸気機関2基を備え、燃料効率の良さを誇った。1896年建造のグレンリーは帆船、1900年進水の信濃丸は蒸気機関船と、この時代は帆船と動力船が混在していてちょうど過渡期だった。
3.信濃丸:1900年、グラスゴーで進水した。排水量6,740トンの貨客船。日本海海戦時、仮設巡洋艦として哨戒に当たっていた時に発した「敵艦見ユ」の信号で信濃丸の名前は不朽となった
日露戦争後は民間船として活躍、老朽化が進んでいた第二次大戦中も物資の輸送に当たったが奇跡的に生き延び、終戦後も中国からの引揚船として使われが1951年に船籍を解かれた。強運の持ち主だったと言える。
4.チープサイド・ストリートとアーバックル・スミス社の貯蔵庫跡地:1960年3月28日、この通りに面していたウイスキーやラムを貯蔵していた倉庫から出火、消防士や救出隊員19人が死亡する大惨事になった
リバーサイド・ミュージアムから東へクライド川に沿って30分くらい歩くと、M8の高速道路がクライド川を越えるキングストン・ブリッジにやってくる。この橋の西側すぐ下に、今は知る人もほとんどいないチープサイド・ストリート(Cheapside Street)という通りがある。通りの両側は一部が駐車場に使われているがそれ以外はほとんどが殺風景な空地である。
1960年当時、この辺りは工場や倉庫が密集する地域であったが、その中に運輸と倉庫業を営んでいたアーバックル・スミス社(Arbuckle, Smith and Company)の倉庫があり、ウイスキーやラムを保管していた。貯蔵していたウイスキーは21,000樽、それと数百樽のラムも置かれていた。
1960年3月28日午後7時過ぎ、アーバックル・スミス社の貯蔵庫近隣のアイスクリーム工場から消防署へ倉庫から煙が出ているという緊急通報があり、6分後には第一陣の消防車が到着、以後増強された消防車も加わって消火活動が行われたが、火勢は急速に強まり7時49分大爆発が発生した。ブレビー(BLEVE=Boiling Liquid Expanding Vapor Explosion)と言われる沸騰液体蒸気膨張爆発で、火によって熱せられた樽の内部のウイスキーが沸点以上に加熱され、樽が破壊するとウイスキーが一挙に大量の蒸気になることで発生する。更に、引火性のウイスキー蒸気が爆発して巨大な火の玉となったのである。
この爆発で、5階建て18mの貯蔵庫の東西両側の壁が道路に向かって倒壊し、下敷になった消防隊員14名と救出隊員5名の19名が犠牲になる大惨事になったのである。
5.チープサイド・ストリートの火災で消防にあたる消防隊:ウイスキー樽の爆発炎上に格闘する消防隊は延べ消防車30台、梯子車5台、水上消防船1隻、その他補助車両多数を動員して必死の消火活動に当たった
当時を知る人によると、爆発後グラスゴーの空は何時間も真っ赤になったそうである。火災現場ではウイスキーが燃えながら流れ落ちてくる中、消防士は壁の下敷きになった同僚の救出に必死の努力を続けた。火災は近隣のアイスクリーム工場、たばこ倉庫、機械工場に延焼し完全に鎮火するまで数日間燃え続けた。密集した建物、可燃性危険物の大量保管、狭隘な道路が消火の妨げになり、ティンダー・ボックス・シティー(Tinder-box =火口)といわれていた町の脆弱さがでた惨事であった。
現在、チープサイド・ストリートのすぐ横を南北に高速道路M8号線が通っている。その高速道路の高架下すぐ近くに、二つの記念碑が置かれている。いずれも2010年に事故後50年の追悼記念として制作された。一つはグラスゴー市長からのものだが、もう一つは近隣の小学校の生徒がタイルのモザイクで消防士の顔を模って制作した。小学生は先生から、50年前に殉職した消防士の中の何人かには小学生の子供がいて、事故後子供達が「ダディーが帰ってこない」と言ったという話を聞き、心を込めて碑をつくった。
この碑に今でも献花する人が絶えないが、これはこの大災害の記憶が今もグラスゴー人に残っていることと、英国社会には社会を守ることに命を懸ける事への高い尊崇の念があることによる。
6.チープサイド・ストリート大惨事の追悼碑:二つの追悼碑は、どちらも2010年に惨事の50年を追悼して設置された。チープサイド・ストリートは前の道路の向こう側、高架のすぐ左側に位置する。今でも献花する人が絶えない。
7.旧アデルフィ蒸溜所跡:クライド川に架かるビクトリア・ブリッジの南東にイスラム寺院が立っている。1906年、ここにあったアデルフィ―蒸溜所で醪タンクが横転する事故があり周辺の通りは醪の川となった
キングストン・ブリッジから都心に向かって20分ほど川沿いを歩くとビクトリア・ブリッジに来る。この橋から北側はグラスゴーで最も古くからは発展した地域で、ビクトリア・ブリッジの前身はクライド川に架けられた橋としては一番古く1200年代には木造の橋があったという。その後1854年まで使われた橋も狭隘になり、この年現在のビクトリア・ブリッジに架け替えられた。
ビクトリア・ブリッジの南詰めの東側、川沿いの通りがアデルフィ・ストリート(Adelphi Street)で、この通りの南側にあったのがアデルフィ蒸溜所である。1824年から操業し、あのアルフレッド・バーナードも1880年代に訪問した。当時、蒸溜所は製麦設備、ポット・スティル4基のモルト蒸溜所にカフェー・スティルも備えてグレーン・ウイスキーも製造していた。
1906年の11月のある日の早朝のことである。3階建ての蒸溜所は、一階に仕込み粕タンク、二階に発酵槽、その上の三階には発酵が終了し蒸溜待ちの醪を入れておく大型のウオッシュ・チャージャー(待ちタンク)が二基置かれていたが、このウオッシュ・チャージャーが突然横倒しになった。二基のチャージャーとその中に入っていた加熱された醪900klが二階の発酵室を直撃、さらにタンク、数百トンの醪、建物の鉄製のフレームや壁の煉瓦が一階の粕タンクの上に降り注いだのである。蒸溜所には幸いにも従業員が2名しかいなかったが、その従業員2名と蒸溜所の外で仕込み粕の受取に来ていた近隣の農家10数人、彼らの荷馬車と馬が奔流する醪に数十メートルも流された。死者が一名にとどまったのは不幸中の幸いだった。
アデルフィ蒸溜所のモルトの生産はこの事故の直後に、グレーンの蒸溜は1932年に終了した。ウイスキーの貯蔵庫は1970年代まで使われたがその後取り壊された。1984年にはイスラム寺院が建てられ現在にいたっている。ウイスキーの蒸溜所跡に禁酒のイスラム寺院が立っているのはなんとなく皮肉っぽい。