1.ストラスアーン蒸溜所
グラスゴーから北へ瀟洒な町で知られるパースに向かって走り、パースのすこし手前で国道85号線に入って10分も行くとメスヴェン(Methven)の村に着く。人口千人余り、通りには郵便局、コンビニ、レストラン、パブ等、コミュニティーのニーズを何とか満たす施設が並んでいるがややうら寂しい。通りを抜けて数分行って左折し農道を道なりに1,2分行くとバキルトン農場(Bachilton Steading Farm)に着く。その一角が2013年10月に操業を開始したストラスアーン蒸溜所である。
2.ストラスアーンの蒸溜釜と創業者のリーマンクラーク氏:蒸溜釜は、スコッチウイスキーで最小で、何だかアラビアの物語に出てくる魔法の蒸溜釜のような雰囲気を持っている。写真提供Strathearn Distillery Ltd
ストラスアーン蒸溜所は3人の創業者が始めたが、中心となったのは以前スコットランドとイングランドの国境近く、イングランド側のベリック(Berwick)でビール会社を経営していたトニー・リーマンクラーク(Tony Reeman-Clark) 氏である。ビールを始める前のトニーの本業はコンピューター・エンジニアだったそうで、“自分の職業で正しかったのはコンピューター・エンジニア、間違っていたのはビール屋”と語っていたがこれは英国人特有の自己諧謔であろう。
ウイスキー作りを始めたのは、ある日友人二人とエジンバラであるウイスキー・セミナーに参加していた時、ウイスキーも良いものだな、自分たちで作ってみようか、となったのがきっかけだそうである。
3.アーン川:蒸溜所から数㎞南に下がったところを東西に流れている。浅瀬が多いので船の交通には適さないが、サーモン・フィッシングの釣り人には人気がある
蒸溜所を建てる場所を探していたリーマンクラーク氏が、ここだと思った場所があった。前出、パースの西10数キロ、ストラスアーンにあるバキルトン農場である。
ストラスアーンは訳すと‘アーンの広い谷’であろう。谷を流れるアーン川は全長約70㎞、西方のロッホ・アーン(アーン湖)に源を発する。ロッホ・アーンは東西10㎞、南北1㎞くらいの東西に細長い湖で、アーン川はメスヴェンの西約20㎞のセント・フィランから東に向かって流れ出し、パースの南東でテイ川に合流する。谷と言っても、両岸はなだらかで広々とした農地が広がっている。蒸溜所はアーン川から数㎞の左岸にある。
4.バキルトン農場:農場の畜産は止めたが施設の中には牛に与えた麦藁の梱が残されていた。大麦の収穫後に機械で円形に丸めた梱-Round straw bale-は一つ300-500㎏の重さがある
ストラスアーン蒸溜所は160年以上続いたバキルトン農場の中にある。この農場は、数年前に止めたのだが、それまで100頭近くの肉牛を飼育する結構大規模な畜産農場であった。牛舎、倉庫など数棟の大きな建物があり、蒸溜所はその施設の極一部に入居している形である。蒸溜所は極めて簡素、既存の蒸溜所を見慣れた目にはこんな設備でちゃんとしたウイスキーが出来るのかと思うほどである。
5.仕込槽:一回の仕込み量は麦芽425㎏。仕込、撹拌、粕出し等全て人力で行う。ここから1,600リッターの麦汁を得て発酵槽に送る。
蒸溜所の概要は下記の通りである。
原料麦芽:主体はビール用のペール・エールモルト。それに、古い品種だがイングランドの一部伝統的なエール・ブリューワリーで根強い人気のあるマリス・オッタ―種の大麦から作った麦芽や、ヘビーリー・ピーテット・モルトを単独及びブレンドして使用する。
仕込槽:写真の通りステンレス・スティール製のオープン型である。スコットランドのモルト・ディスティラリーの標準的な麦汁の摂取量は、麦芽のトン数を5倍したものがキロリッター数になるので、ストラスアーンの麦芽425㎏につき麦汁の採取量が1,600リッターというのは3.8倍で、極めて濃厚な麦汁を取って発酵させていることになる。
6.貯蔵庫:極小規模の蒸溜所で、操業を始めて間もないので、貯蔵されている樽も極少なく、小さ目の樽が主体である。鏡にステンシルで描かれたKite (鳶) がこの蒸溜所のシンボル・マークである
発酵槽:ステンレス製で容量2,000リッターが2基。仕込濃度が高いので、発酵には時間がかかり約1週間、醪のアルコール度数は12%である。
蒸溜釜:容量1,000リッターで張り込み量は800リッターの初溜釜が一基、500リッターの再溜釜が1基で、どちらもポルトガル製である。伝統的なスコッチの蒸溜釜と異なるアランビック型。本溜液の度数は約70%である。樽詰め時には、標準的な63.5%に調整している。
樽:通常のバーボン・バレルの他、小さめの50リッター、100リッターも使用している。ウイスキーには珍しくアメリカ材とフレンチ・オークの新樽も使用。
貯蔵庫:ダネージ(Dunnage=輪木)式。
ストラスアーンはウイスキーを蒸溜し貯蔵する傍ら、ジンの製造・販売も行っている。ウイスキーは、蒸溜してから最低3年間商品化出来ず、その間の資金繰りを助ける為、製造してすぐキャッシュになるジンを作り販売するのはほぼどこの新しい蒸溜所でも行っているが、フレーバーにはそれぞれ新しいアイディアを競っている。
ストラスアーン蒸溜所のジンの一つ、オークド・ハイランド・ジンは、ジンとウイスキーの融合のような作品である。中心のフレーバーは、オークのチップとジュニパーを浸漬したもので、これはスコッチウイスキーがオークの樽で熟成されるようになる以前、新しく蒸溜したスピリッツにスコットランドの原野に生えているジュニパーの実を漬け込んで飲んでいたことの再現である。
ヘザー・ローズ・ジンは、フレーバーにジュニパーのスパイス、スコットランドを代表する花のヘザー(ヒース)の甘い香りとバラの花弁のフローラルを組み合わせた。お勧めの飲み方は、ジンをキンキンに冷やしておいてシャンパンのフルート・グラスに注ぎ、ちびちびやるのだそうだ。又ジントニックは、このジンにトニック・ウオーターを加えると薄い茶色だった色がややピンクを帯びるという。
ジンのフレーバーの組み合わせは、ジュニパーベリーは必須だが、そのほかは何を使ってもよくそれこそ無限である。その中から斬新なレシピを考えつくのは、リーマンクラーク氏が、香辛料をよく使うアジアの食の研究家でまたシェフだった経験が生きているのであろう。おじさん、なかなかやるな。
現在のメスヴェンの町はちょっと退屈で、これといった見るべきものもないが、町の東外れの丘にはややグレーを帯びた白壁の城郭が堂々と立っている。夏の天気の良い日に2,3km離れて南側からみると、白壁の輝きと建物の大きさが辺りの森の緑を圧している。これが、メスヴェン・キャッスルである。
メスヴェン・キャッスルは12世紀から16世紀スコットランドの歴史に深く関わっていた。知られた名前だけでも、ジョン・バリオール、ロバート・ブルース、ジェームズ4世と妃のマーガレット・チューダー(以下マーガレット)が挙げられる。マーガレットはイングランド王ヘンリー7世の長女で、あのヘンリー8世の姉である。13歳でスコットランド王のジェームズ4世に嫁いだが、夫のジェームズ4世は、1513年北イングランドのフロッデンでイングランドと戦い戦死した。マーガレットは以後2回再婚しているが、1528年の2回目の再婚の時に自分の息子で当時のスコットランド王だったジェームズ5世から、彼女と結婚相手のヘンリー・スチュアートにメスヴェンの男爵領を与えられた。マーガレットは1541年に亡くなるまでメスヴェン・キャッスルで暮らした。
7.メスヴェン・キャッスル:この建物は1664年に建てられた。Aクラスの指定建造物である。最初に城塞が建てられたのはそれより3百年ほど古い。南向きの小高い丘にあり、南側には素晴らしい景観が広がっている
スチュアート朝は1714年に、最後の君主アン王女の死去で333年の歴史を閉じたが、スチュアート朝の血はマーガレットを通じて今の英国王室に繋がっている。その家系は、マーガレット→息子のジェームズ5世→クイーン・メリー→ジェームズ6世(イングランドのジェームズ1世)→王女のエリザベス・スチュアート(フリードリッヒ5世と結婚)→5女のゾフィー(ハノーファー選帝候のエルンスト・アウグストと結婚)→長男ハノーファー選帝候(後に英国王ジョージ1世となりハノーファー公国とイギリス国王を兼ねる同君連合のハノーファー朝)となるのである。ハノーファー朝は女王を認めていなかったので1837年にエリザベス女王が王位に就くと解消したが、スチュアートの血はこのように現在の英王室に受け継がれている。
現在のメスヴェン・キャッスルは私有である。結婚式等のイベント会場やベッド&ブレックファーストとして利用されているが、B&Bは一室二人宿泊で一泊一人当たり95ポンドというから、城の歴史に違わない高級B&Bである。
クラフト蒸溜所について書いてきた。クラフト蒸溜所とは何か定義されていないが、小規模で仕込槽の能力が1トン程度、工程は手作り(操作をコンピューターでなく人手で行う)のようである。直近の情報によるとスコットランドでこのようなクラフト蒸溜所が既に10カ所以上あり、現在建設中と計画中が20くらいある。クラフト蒸溜所ブームの感があるが、先鞭をつけたアメリカでは現在約500のクラフト蒸溜所がある。
クラフト蒸溜所がウイスキー世界をより彩り豊かなものにすることは確かだろう。クラフト蒸溜所は小回りが利いてイノヴェーションに取り組みやすい、スペシャリティーが作れる、消費者との距離を短くしやすい、創業者・経営者はウイスキーに高い情熱を持っている等の利点はあるが、資金の回収期間が長いウイスキーの事業にとって資金力や販売力の弱さ、厳しい競合にどう対応して行くか等課題も多い。スコッチのクラフト・ウイスキーはまだまだ微小で、生産も全体の1%に満たないと推定されるが、今後大手もニッチ製品への注力やクラフト蒸溜所の買収など手を打ってくると思われる。ブームに乗っただけでは難しい時がくるだろう。
謝辞:リーマン―クラーク氏にはインタビューと蒸溜所見学に、又田村、宇土両氏には今回も多大のご協力をいただきました。諸氏に厚く御礼申し上げます。