午前中にオークニー島のビール醸造所2か所を訪問した後、午後は2か所のモルト蒸溜所を見学した。最初に訪れたのはスキャパ蒸溜所である。スキャパ蒸溜所については本稿第35章の「オークニーとスキャパ蒸溜所を訪ねて」で一度紹介しているので、内容の一部に重複があることをご容赦願います。
午前中にオークニー島のビール醸造所2か所を訪問した後、午後は2か所のモルト蒸溜所を見学した。最初に訪れたのはスキャパ蒸溜所である。スキャパ蒸溜所については本稿第35章の「オークニーとスキャパ蒸溜所を訪ねて」で一度紹介しているので、内容の一部に重複があることをご容赦願います。
写真1.スキャパ蒸溜所:正面が蒸溜所で2004年に全面改装され、ビジターセンターも開設された。右側の壁は貯蔵庫である。
スキャパ蒸溜所は、バランタイン・ブレンデッド・ウイスキーのオーナーであるペルノ・リカール社が所有している14のモルト蒸溜所の一つである。創立は1885年、当時グラスゴーのブレンド会社だったマクファーレン&タウンゼンド社が建てた。以後現在まで132年を経たことになるが、オーナーの変更、火災事故、操業中止等が相次ぎその道は平坦ではなかった。ペルノ・リカール社がスキャパ・シングルモルトを戦略商品と位置付けて蒸溜所を大改装し、本格的に操業を開始したのは2004年のことである。
スキャパ・フロー
スキャパ蒸溜所は、南にスキャパ・フロー(Scapa flow)を見渡す小高い丘の上に立っている。フローはスコットランドでは入り江や内海のことで、蒸溜所からの眺めは素晴らしい。この自然豊かな風景からは想像し難いが、オークニーは、北海から北大西洋への出口に近く、第一次と第二次の二つの大戦ではドイツ海軍の活動を阻止する戦略的な位置付けにあったため、大きな艦隊を収容できる十分な広さがあるスキャパ・フローは英国本土艦隊の停泊地でもあった。二つの大戦中にスキャパ蒸溜所が見つめてきた二つの大事件がある。
第一次大戦が終了したのは1918年11月18日である。降伏したドイツ海軍のUボート以外の艦艇74隻は11月24日から翌年1月にかけてスキャパ・フローに集められ、その将来はヴェルサイユ宮殿で行われていた講和条約の帰結を待つことになった。その年の6月21日に予定されていた講和条約の調印は23日まで延期されたのだが、ドイツ海軍のすべての艦艇が英国の手に渡ることを恐れたドイツ海軍提督、フォン・ロイターは21日の午前11時20分に全艦艇に自沈するよう信号を送ったのである。イギリス軍によって浅瀬に曳航されて沈没を免れた22隻を除く52隻がスキャパ・フローに沈んだ。ドイツ艦艇の乗組員は、英軍との小競り合いで死亡した9名以外の1,774名は救助された。
この事件後の反応である。ドイツ艦艇の山分けを期待していたフランスは‘残念’と言い、英国のある提督は私見ながら、‘後の分配のごたごたを考えると祝福すべきことだ’とコメント、ドイツのある提督は‘歓喜この上ない。艦艇の船名板を敗戦の屈辱で汚すことは避けられた。ドイツ海軍の魂は不滅である’と宣言した。この辺り何やらお国柄が出ているように思われる。
写真2.スキャパ・フロー:蒸溜所からやや南東を見た眺望である。北はオークニー本島、東は南ロナルゼー島、西はホイ島といくつかの小島に囲まれ、その面積約325km2は大阪市の面積223㎞2の1.5倍に当る。
戦略的な位置にあるスキャパ・フローに英国海軍の主力が置かれていてはドイツ海軍の活動が妨げられるとなると、ドイツとしては黙視できない。第二次大戦が勃発してから一か月少々しか経っていない1939年10月13日夜中に、一隻のU-ボート、U-47が東側からスキャパ・フローに侵入した。英国側は防備のため主要な水路には廃船を沈め、杭を打ち、潜水艦ネットを張って防御には努めていたが、U-ボートは防備が不完全だったオークニー本島とすぐ南の小さな島の間の狭い水路を浮上航行してスキャパ・フローに入ることに成功した。満潮で月がない日が選ばれたが、オーロラの明かりはまぶしかったという。スキャパ・フローに侵入したのは14日の午前0時27分だった。U-ボートは、標的とする英艦隊の主力艦を探したところ、英海軍は危険分散のためにすでに多くの艦船を他の港に移しており、なかなか見当らなかったが、見張りが北方に戦艦ロイヤル・オークを認め魚雷攻撃を行った。最初の攻撃は一発がロイヤル・オークの舳に軽微な損傷を与えただけだったが、2回目の攻撃は3発の魚雷全部が船体の中央部に命中、ロイヤル・オークは転覆して沈没した。ロイヤル・オークは1914年に進水した老朽艦で、戦力の損害は大きくなかったが、乗員1,234人中834人が犠牲になったのは大損失だったし、英国にとって屈辱的であった。遺体の多くは収容できず、海底に沈んだロイヤル・オークが正規の軍人墓地になっていて、ダイビングは禁止されている。その地点は写真2の丁度真ん中辺りである。
スキャパ蒸溜所
スキャパ蒸溜所は、小さな蒸溜所である。年産1万キロリットル規模の大型蒸溜所が相次いで生まれているなかで、スキャパの年間蒸溜能力の1,000キロリットルは、クラフト蒸溜所といっていい。数少なくなったコンピュータ化されていない蒸溜所の一つである。製造の概略は下記の通りである。
1. 麦芽:ノン・ピーテッド麦芽。英本土の製麦工場から購入
2. 仕込:セミラウター型仕込槽、1回当りの麦芽量2.9トン、麦汁量13,500リットル
3.発酵:スティール製発酵槽(25,000リットル)8基、酵母はアンカー社ドライ・イースト、発酵時間は70-80時間の長時間発酵、発酵終了醪のアルコール分8%
4.初溜:初溜釜(ピューリファイアー付ローモンド型、13,000リットル)1基、コンデンサーはシェル&チューブ式
5.再溜:再溜釜(通常型、8,000リットル)1基、コンデンサーはシェル&チューブ式、1蒸溜当たりの本溜液量は約1,100リットル・アルコール、アルコール度数約72度
6.貯蔵:バーボン樽。シングル・モルト用にはファースト・フィル(最初の樽詰め)を当てる。
製造工程のスター・プレーヤーは何と言っても、初溜釜のローモンド・スティル(Lomond still)である。優雅な曲線を持つスコッチ・モルト蒸溜所のポット・スティルと異なり、巨大な円筒形のネック、大きく下方に折れ曲がったライン・アームがピューリファイアーに繋がりなんとも異形である。
写真3. スキャパ蒸溜所の蒸溜室:手前がローモンド・スティルの初溜釜で、奥が通常型の再溜釜である。初溜釜から出たウイスキーの蒸気はライン・アームを通ってピューリファイアーに入り、一部が冷却・液化されて初溜釜に戻る仕組みになっている。
そのローモンド・スティルであるが、元々は蒸溜条件を変化させることで、一つの蒸溜所でいくつかのスタイルのモルト・ウイスキーを作ることを狙いとしていた。その構造は、ネックの部分に多数の穴が開いた棚が3段入っていて蒸発してきたウイスキーの蒸気が還流され、またこの棚は上下に開閉できる仕組みになっていて還流される比率が調節でき、更にネックにはウォーター・ジャケットが巻かれていて、ジャケットの中を流れる冷却水の水量をコントロールすることでスピリッツの還流率を変えることも出来るように設計されていた。
試作機が設計されたのが1955年、その翌年に実用機がバランタイン社のダンバートン・グレイン蒸溜所にあったインヴァーリーヴェン・モルト蒸溜所に設置された。この第1号のローモンド・スティルは再溜釜で、それまでに稼働していた通常型の初溜釜とセットで使われた。ローモンドの名前は近くのローモンド湖に由る。結果は成功だったようで、1958年にはグレンバーギー蒸溜所に初溜用と再溜用の2基が、1959年には初溜用1基がスキャパ・蒸溜所*に、1964年にはミルトンダフ蒸溜所に初溜・再溜各1基が設置された。
設計したのはバランタイン社のエンジニア、アリスター・カニンガム(Alistair Cunningham)氏である。バランタインのブランドを持つハイラム・ウォーカー(スコットランド)社に入社したのは1942年で中学校を出てすぐの16歳前、以後社内各所で研鑽をつみ、1990年にはアライド社社長に昇進し1992年に引退するまで50年間バランタイン・ブランドを世界ブランドに育て上げることに貢献した。
写真4.アリスター・カニンガム氏:1926年生、2010年没。バランタイン・ブランドの育成に一生を捧げ、現役中は‘ミスター・バランタイン’として知られた。
カニンガム氏はマスターブレンダ―ではなかったが、バランタイン・ウイスキーの「ピーティー過ぎず、オーキー過ぎず、ドライだがドライ過ぎず、軽いが軽すぎず」というエレガントなスタイルを作り上げた。また現在、シーバス社の主力ボトリング・プラントとなっているキルマリッド(Kilmalid)の瓶詰工場の設計・建設を主導し、ヨーロッパ第一のボトリング・プラントにしたのも同氏である。
話をローモンド・スティルに戻す。インヴァーリーヴェン、グレンバーギー、スキャパ、ミルトンダフの各蒸溜所に導入されたローモンド・スティルだが、いずれも1980年代には役目を終えた。インヴァ―リーヴェン蒸溜所は生産中止、グレンバーギーとミルトンダフは、従来型のポット・スティルに改造され、スキャパは内部の棚やウォーター・ジャケットを取り外して現在の形になった。その理由は、まず構造と操作が複雑すぎたこと、再溜釜には良いだろうが蒸溜時に激しく泡立つ初溜釜では醪の固形分が棚に付着してそのクリーニングに手間がかかったこと、思ったほどの品質の多様化につながらなかったという技術的な理由に加えて、スコッチウイスキーの発展で、もともとのグレンバーギーやミルトンダフのモルトの需要が増えたことがある。
ローモンド・スティルが開発された1950年当時は、ウイスキーの品質を決める要因が良く分かっておらず、カニンガム氏が蒸溜時の還流に着目したのは無理からぬことであった。
スキャパのローモンド・スティルは、太い首をウイスキーの蒸気がゆっくり流れて壁面での銅反応を増やし、ピューリファイヤーから還流されることもあって、スキャパ・シングル・モルト特有のフルーティー、ハニー、デリケートな複雑さを作り出すのに大いに貢献している。
写真5.ブルックラディ蒸溜所のローモンド・スティル:その優雅でない形から、アグリー(醜い)・ベティと命名されている。由来は、2006年からアメリカのテレビで大ヒットした同名のコメディードラマである。ジンの蒸溜には、60%のニュートラル・スピリッツにボタニカルを一晩浸漬してから蒸溜する。(Acknowlegement:Mr Armin Grewe, Islay Pictures Photoblog)
ローモンド・スティルは、試作機を入れて全部で7基が作られた。その中で現在でも残っているのはスキャパの初溜釜と、インヴァーリーヴェン蒸溜所の第1号の実用釜の2基だけである。インヴァ―リーヴェンのローモンド・スティルは、ダンバートンが閉鎖された後の2005年に、ブルックラディ蒸溜所が買い取りジン・スティルとして活用している。カニンガム氏の技術者魂は消え去らなかった。
参考資料
1. https://www.suntory.co.jp/news/article/12530.html
2. http://scapawhisky.com/
3. https://en.wikipedia.org/wiki/Scapa_Flow
4. http://www.scapaflowwrecks.com/wrecks/royal-oak/sinking.php
5. http://www.scapaflowwrecks.com/map/
6. http://www.scotsman.com/news/obituaries/obituary-alistair-cunningham-1-819788
7. http://www.islay.org.uk/2015/01/15/ugly-betty-still-at-bruichladdich-isle-of-islay/
8. https://en.wikipedia.org/wiki/Ugly_Betty
*スキャパ蒸溜所に現存するローモンド・スティルがいつ設置されたかは確証がないようである。1971年説をとる人もいてそれなりに説得性がある。時間があれば調べてみたいと思っている。