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バランタイン17年ホテルバー物語

ホテルオークラ東京 ORCHID BAR

第7回 「神無月夫婦」

作・達磨 信  写真・川田 雅宏

*この物語は、実在するホテル、ホテルバーおよびバーテンダー以外の登場人物はすべて架空であり、フィクションです。

  三人の部下はご機嫌な様子で帰っていった。途中からはじまった彼らのよもやま話に笑顔で相槌を打ちながら、最後のほうは店内に彩りを添えているステンドグラスの配色を数 えて時を過ごした。
  ひとりになり、テーブル席からカウンター席へ移る。すると即座にバーテンダーの福田がおしぼりを差し出してくれた。「ありがとう」と応えて手を拭きながら、ふぅっ、と息をひとつ吐く。
「倉石さん、貴婦人でよろしいですね」
  福田の穏やかな口調がやすらぎをもたらす。「うん」と返すと、彼は微笑んで準備をはじめた。
  15年前、このオーキッドバーに上司のお供で来て、駆け出しの福田を知った。いまはアシスタントマネージャーであり、以前ほどカウンターに立つ機会は少なくなったが、それでも状況を見てカクテルをつくってくれる。
  先ほどまで店は満席状態だった。11時近くになって随分と落ち着いてきて、これならばあと1時間、ゆっくりと彼の酒を味わえる。
  月に二回ほどホテルオークラ東京に泊まるようになって4年以上が経つ。時折会社の人間を連れてくるのだが、彼らはわたしがここに宿泊することは知らない。親しくしている福田の酒をひとりで飲みたいのだろうとの気遣いのようで、このくらいの時間になると彼らは一様に退散してくれる。

  今夜の部下たちは仕事の近況について語ってくれた。やがてウイスキーの水割りの杯を重ねるほどに、買ったばかりの新車の性能や、誰々のしている腕時計は高価だとか、新発売のスマートフォンがどうしたとか、さまざまな話題で盛り上がっていった。悲しいかな、そういう話題にはまったく興味がない。
  自分でもやっかいな性分だと思っている。昔から物欲がない、というよりも身のまわりにモノがたくさんあるだけで気持ちが重くなる。モノが増えると、何か荷物を抱えた気分になる。訳もなく苛立つのだ。
  彼らの話題を自分に照らし合わせれば、車の免許さえなく、腕時計は高校、大学の入試の時にしか持ち歩いたことがない。会社から充てがわれているスマートフォンは仕事道具と割り切るしかない。
  20代の頃、2年間苦しみ悩んだ末にベッドを買うと決めた。実際に購入したのはそれから5年後だった。気に入ったベッドを探し出すのに費やした時間だ。いざ自分のものにするとなると、寝心地や細部の材質、デザインにいたるまでなかなか妥協できない。難儀なのだ。モノというものは、疲れるのだ。
  ホテルに宿泊するのも、自宅にいると落ち着かないからだ。
  5年前に歯科医の女性と結婚して家を買った。物件選びは彼女にすべてを一任した。どちらも40を過ぎた初婚で、お互い相手のことを干渉し合わない、ほどよい距離感を保ちつづけているが、唯一の問題はやはり自分の性分だった。
  花や絵を飾るくらいはゆるせるが、やたらモノが威張っていて苛立ちが募る。まず大型テレビ、ふたり暮らしには似つかわしくない大きさのソファーや家具、それに健康器具やなんやらと挙げればきりがない。
  暮らしはじめて悩んだ末、妻に正直に打ち明けた。 「昔の学生下宿のように本棚と机だけの暮らしが理想だってこと。いつの時代を生きているの。わかったわ。じゃあ、我慢の限界に達しそうになったらホテルに泊まってちょうだい。それでも駄目というなら、覚悟を決めて話し合いましょう」
  こう脅されてしまい、最初は頻繁にホテルに泊まったが、やがて月二回に収まった。慣れというものは恐ろしい。妻から文句ひとつ出ないのも恐ろしい。
  ホテルは変わることがない。福田の酒が飲みたいからだし、妻を結婚前に何度か連れてきているので、彼女も安心だろうとの思いもある。

  福田がシェークをはじめた。真剣な眼差し。気が入った、職人の姿だ。味わいには安定感がある。ホテルオークラ東京伝統のドライな切れ味。甘みをほどよく抑え、酸味がすっきりと立った清々しいサイドカーが生まれてくる。
  かつて麗しい色香に魅了されて、わたしが思わず“気高い貴婦人のようだ”と表現してから、ふたりの間では正式なカクテル名称を呼ばなくなった。
「今夜の貴婦人は、つん、と澄まし顔のような感じがする」
  ひと口飲んでそう言うと、福田がこう言った。
「待たせすぎて、レディはすねてしまったのでしょう」
  たしかに、待たせすぎた。寛ぎの酒はウイスキーだが、その前に必ずブランデーベースのサイドカーを飲む。この浮気が飲み慣れたウイスキーの味わいを新鮮にする。ただ、今夜はいつもより水割りを飲み過ぎて、サイドカーが強く感じられてしまった。こんなことははじめてだったが、まあ、味覚のリズム感が良くない日だってあるだろう、と自分に言い聞かせた。
「倉石さんは会社の方たちに慕われていらっしゃいますね」 「どうだか。皆、ウイスキー好きなだけさ。この俺が商社の営業部長だよ。笑えるだろう。自分の性分を隠して、とにかく笑顔でいるだけで、取り柄なんてない男だよ」
「お話をきちんと聞いていらっしゃるから、皆さんも本音をぶつけやすいのでは。それに倉石さんは律儀ですし、物欲がないからこそ、冷静に状況分析ができるということはありませんか」
「そうかな。君のほうが律儀な職人で、俺なんかより冷静だと思う」
  福田の実家は神戸でテーラーを営んでいたという。一見無骨そうに思えるが、職人だった父の背中を見て育ったからだろう、接客に独特の柔らかさがあり、いつも精神状態が一定で人に安心感を与える。

  「バランタイン17年のストレートが手元に置かれた。
「やっとたどり着いた。バランのこの芳しさがいいんだな。貴婦人との出会いの余韻を残しつつ、香りの花園に遊ぶといった風情だ」
  そう呟いたとき、スタッフが客を案内している気配がした。前に立つ福田が彼らしくない、慌てたような不自然な声で「奥様」と発した。
「福田さん、主人がいつも大変お世話になっております」
  振り返ると妻が迫ってきていた。
「ちょっと、あなた携帯は。会社に忘れたんでしょう。何度もかけたのよ」
「ど、どうしたの。なんで君が、なんでここへ」
「忘れていたでしょう。結婚記念日。5年前の10月の今日。実はわたしも、2時間前にお風呂の中で思い出したんだけどね。日付が変わっちゃうといけないから、急いで着替えて、タクシーに乗ったの」
  妻の登場に動揺しているわたしをよそに、福田は見事な対応を見せる。
「それではシャンパンでお祝いしましょう」
「待って、福田さん。わたし、カクテルが飲みたい。そのあとは主人と同じウイスキーを飲むわ。カクテルは、そうね、すっきりとした酸味があるほうがいいかな。ヤワなのは駄目。ちょっと強めのカクテルにしてください」
「では、素敵なレディのために、こころを込めてサイドカーをおつくりします」
  そう言いながら福田はこちらの目を覗き込み、「奥様にふさわしいですよね、倉石さん。サイドカーしかありません。とくにバランタイン17年の前は」と言うので、まるでギャグじゃないか、と叫びたくなった。
「あら、サイドカーなんて何年ぶりかしら。嬉しい。来てよかった」
  妻がはしゃいでいる。
「わたくしも倉石さんご夫妻の結婚記念日に、奥様のためにカクテルをおつくりできて感激です」
  福田もえらく調子いい。
「凄いでしょう。モノ嫌いの寂しがり屋の男、人嫌いの寂しがり屋の女、社会の落ちこぼれのようなふたりが5年つづきました。さて、10年持つかしら」
「とんでもない。素敵なご夫妻です」
「ふたりとも10月生まれなの。神無月。それで神無月に結婚したわけ。あっ、もうひとつ共通している点があったわ。好きなウイスキーが同じなの」
  人生には、静かにバランタイン17年を堪能できない夜もあるらしい。 (第7回「神無月夫妻」了)

*この物語は、実在するホテル、ホテルバーおよびバーテンダー以外の登場人物はすべて架空であり、フィクションです。 登場人物
倉石夫妻(商社マン、歯科医)
福田匡晃(オーキッドバー、バーテンダー) 福田匡晃(オーキッドバー、バーテンダー) 協力 株式会社ホテルオークラ東京 105-0001 東京都港区虎ノ門2-10-4
Tel. 03-3582-0111(代表)


ORCHID BAR(メインバー/本館5階)
バランタイン17年 ¥1,890、
ウイスキー ¥1,050〜、
サイドカー ¥1,575、
カクテル ¥1,365〜、
オードブル ¥1,890〜、
サービス料10%(チャージ無し)

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