写真1.ヘップル・ジン蒸溜所の周りの風景:山裾にすこしの農地と羊を飼っている牧草地があるが、その向こうはもう荒地が広がる過疎地で、民家も見えない。
写真1.ヘップル・ジン蒸溜所の周りの風景:山裾にすこしの農地と羊を飼っている牧草地があるが、その向こうはもう荒地が広がる過疎地で、民家も見えない。
ジン・ブーム
ここ数年英国ではジン・ブームである。今年1月24日のテレグラフ紙電子版の記事によると、2018年にウイスキー、ジン、ウオッカなどの蒸溜酒の製造所は、いわゆる英国(UK)のイングランド、スコットランド、ウエールズ、北アイルランドの合計で361あり、うちイングランドの166は史上初めてスコットランドの160を抜いたが、この主因はイングランドにおけるジン製造所の急増にあるという。年間10万kl以上を製造する蒸溜所と、その2000分の1の高々数十klしか蒸溜できないところを同じ一つとして数えることにどれだけ意味があるかは疑問だが、イングランドで小規模のジン蒸溜所が次から次と出来ていることは間違いない。
しかしながら、この蒸溜所の数字はHMRC (Her Majesty's Revenue and Customs = 英国の歳入税関庁)が発給した製造免許の数で、実際にジンを蒸溜法で造っている蒸溜所の数ではない。後に述べるが、英国のジンの定義はEUの定義に従っていて、蒸溜法に依らなくてもジュニパー(正しくはジュニパー・ベリー=ジュニパーの実)とフレーバーのエッセンスだけでジンになるのと、実際に蒸溜所を持たず委託生産をしている業者も入った数字である。蒸溜法で造る本格的ジンのギルド(同業組合)では、蒸溜法に依らずジュニパーとフレーバリングだけでジンを造っている業者や、ディスティルド・ジンの規格に合っていても自社で蒸溜所を持たず委託生産しているところを除き、自社で、蒸溜法でジンを造っている蒸溜所の数を集計して191と発表している。イングランドにはウイスキーの蒸溜所は数か所しかないので、それを引くと約160ほどのジン蒸溜所があることになる。その内の約10か所はウオッカを製造していて、そのウオッカをベースにジンを製造している。
ジンとは
英国のジンの定義はEUのジンの定義にしたがっており、ポイントだけ述べるとジンには3種類の製法がある。①ジン:農産物由来のアルコールにジュニパーと天然物由来かそれ相当のエッセンスでフレーバーを付けたもの (蒸溜しなくてもよい)、②ディスティルド・ジン:農産物由来のアルコールをジュニパー・ベリーやその他の草根木皮を加えて蒸溜したもの、それにアルコールや天然物由来かそれ相当のエッセンスを加えても良い、③ロンドン・ジン:農産物由来のアルコールに天然の草根木皮だけを加えて伝統的なジン・スティルで蒸溜したもの。これに品質が保たれる範囲でアルコールを加えても良い。これらすべてのカテゴリーで、ジュニパーの香味が顕著にあり、瓶詰めされた製品のアルコール度数は37.5%以上である、となっている。
フレーバリングだけでジンを造るのは簡単で、しかも多様なフレーバーが可能である。ジン・ブームに乗ってスーパーの棚には、オレンジ、レモン、アップル、ローズ、オーク、パインアップル、チョコレート・・・のフレーバー・ジンが並んでいて、これでジンと言えるのか、定義をもっと厳密にすべしという意見もある。
ヘップル村
訪問先であるヘップル・ジン蒸溜所は、スコットランドとイングランドのボーダーをイングランドへ少し入ったノーサンバーランド(Northumberland) 州の、ノーサンバーランド国立公園の東端の境界線上にあるヘップル(Hepple)村にある。ノーサンバーランド州は、イングランド最北東の州で北はスコットランド、東は北海、西はカンブリア、南はタイン・ウイアとダーラム州に接している。面積5,000km2はイングランドの行政区域のなかで一番広く*、日本で言えば福岡県か千葉県と同じ大きさである。人口は僅か32万人、人口密度63人/km2で最も過疎な地域である。ノーサンバーランド国立公園は、面積約1050km2というから州の約1/5以上を占める広大なもので、その一部はDark Sky Park(星空保護区)に指定されており、‘英国で最も過疎で、最も訪れる人の少ない国立公園’である。
トラクエアー・ハウスからヘップルへは、ガラシールス、メルローズなどのボーダーズの町を通って国道68号線に出て、ジェドバーグまで南下すると直ぐ国境を越えイングランドに入る。ダルグースの村でA696へ、更にオッターバーンでB6341線へ入りヘップル村の直ぐ前で右に曲がって地道をうねうね行くと目的地のヘップル・ジン蒸溜所へ着く。
ヘップル・ジン蒸溜所
写真2.コーチ・ハウス:ヘップル・ジンの蒸溜所は、この元コーチ(coach=馬車)を入れていた建物にある。コーチの出し入れのためだろうか、建物の割に大きなドアが目を引く。
ヘップル・ジンは、ムーアランド・スピリッツ社(Moorland Spirit Company Limited)のジン・ブランドである。会社の創設は2014年、メンバーは蒸溜所のあるエステートのオーナーで社長のSir Walter Riddle氏、シェフ、著述家、ブロードキャスターのValentine Warner氏、ヘリオット・ワット大卒で元シップスミスジン蒸溜所のヘッド・ディスティーラーのChris Garden氏、カクテル・クリエーターのNick Strangeway氏とロンドン大卒でスピリッツ蒸溜の専門家のCairbry Hill氏というユニークで強力な布陣である。
本日の案内役はマスター・ディスティラーのChris Garden氏である。ヘップルの品質の狙いはカクテルのMartiniにベストのジンである。製法の特徴は、出来るだけエステートに自生しているジュニパーやダグラス・ファー等の原料植物を使用することと、ジン・スティルに加えて、原料からのフレーバーの回収率を高める抽出技術を採用していることである。
写真3.ジン・スティル:ドイツ製のこの形の小型蒸溜機は、ポットスティルに簡単な精溜塔が付いている。小型なのと留出液のアルコール度数の調整に便利な為多くのクラフト蒸溜所で使われている。
ジンの香りの中心は、ジュニパー・ベリーに由来する。ジュニパーはヒノキ科の針葉樹で、日本語では西洋杜松(セイヨウネズ)と言われている。北半球の寒冷地に分布し、樹高は生育地で異なり、20mの高さになるものもあるそうだが、ヨーロッパに自生しているものは低木のブッシュである。雌雄異株で、ジンに使われるのはその球果(Berry)である。
ジンの蒸溜の目的は、ジュニパー・ベリーやその他の草根木皮に含まれているフレーバーを、蒸溜で抽出・分溜することにあり、良い香味成分をいかに効率的に回収するかがポイントになる。
蒸溜法は、まずスティルに60%のグレーン・スピリットを張り込み、それにジュニパー、コリアンダー、レモンピール等12種の原料を加え一晩浸漬する。蒸溜は、最初に溜出する2%はカットして廃棄、次の本溜で80%を取り、残りは廃棄する。蒸溜は6-7時間を要する。この蒸溜工程は、通常のジン・スティルに比べると、使用しているスティルが小さくジンの蒸気とスティルの銅との接触度合が大きいことと、精溜塔での還流率が高いのですっきりしたスピリッツが出来上がると思われる。
写真4.ヘップル蒸溜所の炭酸ガス超臨界抽出装置:写真のように極小さな装置である。中央の抽出タンクにジュニパー・ベリーを入れて炭酸ガスを送り込み、温度・圧力を調整して超臨界状態の液体にして香気成分を抽出する。1回の操作に数時間を要する。
この蒸溜所の特徴は、別に二つの抽出法を採用して目的とするフレーバーを効率的に回収していることである。一つは、ジュニパーやコリアンダーなどの香気成分を超臨界液化炭酸ガスによって抽出する方法である。超臨界液化炭酸ガスは、低温で高い抽出力があるので、食品ではコーヒーの脱カフェイン、日本茶のフレーバー、ホップ成分、医薬の有効成分や化学品の抽出に応用されている技術である。ジュニパー・ベリーをこの方法で抽出したエッセンスは、ジンに豊かな味わい、調和が取れて深みのあるフレーバーを与えるという。
もう一つの技術はロータリー・エヴァポレーターで、ダグラス・ファー(Douglas-fir)の葉や、自家エステートで収穫した未熟でまだ緑色のジュニパー・ベリーにニュートラル・スピリッツを加え、減圧下の45℃程度の低温で蒸溜してこれら原料のフレッシュな香りを回収するテクニックである。ダグラス・ファーも針葉樹で、松科、シュウドツガ属、米松種に分類され、原産地はアメリカ西海岸で樹高100mにも達する高木である。木の名称のダグラス・ファーは、スコットランド人の植物学者で、アメリカ西岸でこの木を見てその特性と用途を最初に報告した、デーヴィッド・ダグラス(David Douglas)に因んでいるが、ダグラス・ファーはファー(モミ、属名Abies)ではなく、別の属のツガ(Pseudotsuga)である。ダグラス・ファーはオレゴン・パインとも呼ばれ、モルト蒸溜所の木桶発酵槽によく用いられている。
写真5.ロータリー・エヴァポレーター:ダグラス・ファーの葉とニュートラル・スピリッツが入っている円形のフラスコの中の下半分がお湯の中に浸っていてぐるぐると回転しながら熱の供給を受ける。フラスコの内部は45℃くらいで沸騰するように減圧されていて、低温でアルコール抽出されたダグラス・ファーの香気成分がアルコールと共に蒸発してくるので、それをコンデンサーで冷やして回収する。
ジン・スティルで蒸溜した溜液、超臨海炭酸ガス抽出のエッセンス、ロータリー・エヴァポレーターの溜分を適宜ブレンドして出来上がった製品は、新鮮な柑橘、ジュニパーと松葉のスパイスな香りが顕著で、味わいはしっかりしたジュニパーの味が続き、ジュニパーと甘みのある後味である。現在、多くのクラフト蒸溜所が誕生しているが、ヘップルは言うならハイテク・クラフト蒸溜所という印象であった。
荒野のマティーニ
野生のジュニパーが生えている所を見に行くというので、一同出発した。数分間果樹園や牧草地を歩くともう荒地に入る。大きな木はなく、ピート層の上にブッシュが点在し、何本かの幅3mほどの小川を丸木橋か川中の飛石伝いに転ばないように注意して渡る。上り勾配を15分くらい歩いて目的のジュニパーが野生して場所に着いた。
写真6.野生のジュニパー:ヨーロッパでは、北イタリアのトスカーナ地方がジュニパーの産地として有名で、そこではベリーが完熟するまで一般的に2年であるが、ここ北イングランドやスコットランドでは気候が寒冷なため、完熟するまで3年を要する。ヘップルではまだ小さく緑色の若い球果も使用している。
ジュニパーが生育しているすぐ横にお世辞にも上等とはいえないテーブルが一つあり、そこに案内役のChrisが蒸溜所を出る時から担いでいた結構大きなリュックを置き、中からカクテルに必要な資材一式を取り出した。野性のジュニパーが生えている野外でマティーニを作って呑もうという訳で、ヘップル・ジン、ドライ・ヴェルモット、レモンの皮、氷、シェーカー、カクテル・グラスを全部担いできたのであった。
写真7.荒野のマティーニ:生憎お天気は曇り空であったが北イングランドの荒地の清冽な空気の中で飲むマティーニは味わいの細かい特徴がより明確に分かり独特であった。ロンドンの一流バーで飲むマティーニも良いけれど、野生にジュニパーの生えている荒地でマティーニを飲むといった振る舞いは、ここだけしかできない。
カクテルのマティーニを有名にしたのは、かのロンドンのサヴォイ・ホテルのアメリカン・バーである。ヘッド・バーテンダーのハリー・クラドック(Harry Craddock)はイギリス人だったが、19世紀終わりのころアメリカに渡り、いくつかの有名ホテルのバーで働いたが、禁酒時代にアメリカを逃れ、1920年代から1930年代にかけてサヴォイ・ホテルでヘッド・バーマンになった。彼はこの高級ホテルのバーにやってくる紳士・淑女にマティーニを提供しこのカクテルの人気を広め、確実なものにした。1930年に彼の編纂したサヴォイ・カクテル・ブックは750のカクテルを収録、現在でも補講出版されている。その2011年版のマティーニを見ると、ドライ、ミディアム、スイートの3種が掲載されている。ドライのレシピはフレンチ・ヴェルモット1/3, ドライ・ジン2/3を良くシェークしてカクテル・グラスに注ぐとあり、ミディアムではフレンチ・ヴェルモット1/4にイタリアン・ヴェルモットが1/4、それにジンが1/2, スイートではイタリアン・ヴェルモット1/3にジンは2/3なっている。現在のIBA (International Bartenders Association)のレシピではジン6に対してドライ・ヴェルモットが1となっているので、サボイのカクテル・ブックのレシピはずいぶん甘口である。世の中、最も辛口のマティーニは、かのチャーチルのマティーニで、処方は「ミキシング・グラスで氷とジンをステア―しながら、ドライ・ヴェルモットの瓶を横目でちらっと見る」である。
参考資料
1. https://www.telegraph.co.uk/news/2019/01/24/england-has-distilleries-scotland-first-time-history-gin-boom/
2. https://www.theginguild.com/interactive-gin-distilleries-map/
3. https://eur-lex.europa.eu/legal-content/EN/TXT/?uri=celex:32008R0110
4. https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%A4%E3%83%A8%E3%82%A6%E3%83%8D%E3%82%BA
5. http://www.chorinkai.co.jp/older/chorinkai2.html
6. https://www.jasco.co.jp/jpn/technique/internet-seminar/sf/sf5.html
7. The Savoy Cocktail Book (2011). Pavilion Books