写真1.ジェニングス・ビール醸造所の入り口ゲート:Jennings Brothersとあるのは、創業者ジョン・ジェニングスの孫にあたる3兄弟が事業を引き継いだこと、醸造所名のCastle Breweryは、醸造所が12世紀からのコッカマウスの古城のすぐ下にあることに由る。
写真1.ジェニングス・ビール醸造所の入り口ゲート:Jennings Brothersとあるのは、創業者ジョン・ジェニングスの孫にあたる3兄弟が事業を引き継いだこと、醸造所名のCastle Breweryは、醸造所が12世紀からのコッカマウスの古城のすぐ下にあることに由る。
本章に入る前に、申し訳ありませんが前109章の「ヘップル・ジン」の中で1点間違いがありましたのでお詫びし修正します。「ヘップル蒸溜所のあるノーサンバーランドはイングランドの行政区域の中で面積が一番広い」と書きましたが、これは正確には「その地区(District)の行政が単一(単層:Unitary)の議会で行われている自治体の中で一番広い」が正しく、全ての自治体の中での順位は6番目になります。因みに、1番目から5番目は、ノース・ヨークシャー(North Yorkshire)、リンカーン・シャー(Lincolnshire)、カンブリア(Cumbria)、デヴォン (Devon)、ノフォーク(Norfolk)の順になる。
イングランドの地方行政組織は複雑でしかもよく変わるが、最も信頼のおけるLGiU (Local Government Information Unit: 地方行政情報ユニット) によるイングランドの行政組織図を図1.に掲げた。中央政府の下が、地域連合庁(Combined Authority)、その下がカウンティ―、バラ(Borough)か地区(District)となるが、図の左から2列目の非都市カウンティ―とその下の非都市地区の2層構造になっている以外は、バラか地区に議会がある一層組織になっている。
本論の「ボーダー・リーヴァーズ」3番目の訪問先は、コッカマウス(Cockermouth)の町にあるジェニングス・ビール醸造所(Jennings Brewery)である。ノーサンバーランドのヘップル村から南西約150㎞、車で2.5時間ほどの距離にある。カンブリア地方は、イングランドの北西端、東はノーサンバーランドとダーラム、東南は北ヨークシャー、南はランカシャー、西はアイリッシュ海、北はスコットランドに接している。前述のようにイングランドで3番目に大きいカンブリアの面積は6,768㎞2で日本の島根県よりやや広く、何と言っても風光に優れた湖水地方で有名である。コッカマウスは湖水地方の北西の外れにある古くからのマーケット・タウンで、現在の人口は約8,000人の瀟洒な町である。コッカマウスはコッカー川の河口という意味で、コッカー川が本流のダーウェント(Derwent)川に合流する所に位置している。
コッカマウスで生まれた有名人に英国のロマン派詩人、後にビクトリア女王の桂冠詩人に叙せられたワーズワース(William Wordsworth)がいる。ワーズワースが生まれ少年期をすごした大邸宅が残っていて、今はワーズワース・ハウスとして一般公開されている。
写真2.ワーズワースの生家:ワーズワースは1777年4月にこの家で生まれた。父親のジョンは、長年国会議員を務めたランズデール伯爵(Earl Lonsdale)の法定代理人であったので社会的にも経済的にも地位の高い人だった。
ジェニングス・ビール醸造所
会社の創業は1828年にコッカマウスのすぐ近郊のロートン(Lorton)村で、製麦業を営んでいたジョン・ジェニングス(Sr.)がビール造りを始めた時に遡る。盛業だったようで、事業の拡大を目指した会社はより大きな町で市場も大きいコッカマウスに新しい醸造所を造る事にし、1874年から建設を開始した。この時期、会社の経営はジョン(Sr.)からジョン(Jr.)と彼の3人の息子達に移っていて、ロートンの醸造所と新醸造所の事業は一つの事業体だったが、1881年からコッカマウス醸造所はジョン(Jr.)の3人の息子達に引き継がれた。
ジェニングスは、20世紀に入ってから地域の5つのビール醸造所とその傘下にあった多くのパブを買収し業容を広げていったが、2005年にパブと醸造所を経営する大手のマーストンズ(Marston’s)に買収された。Marston’s は旧名Wolverhampton and Dudley Breweries と言い、ビール醸造とパブ経営の大手である。事業コンセプトは、英国のコミュニティーのハート(心の拠り所)はパブにありその需要に応える事、及びそのパブへイングランドのパブで伝統的に愛飲されてきたエール(Ale)を届ける事にあるという。現在所有している醸造所は、伝統的なエールを醸造し、生産の約半分は樽で出荷するカスク・エール(Cask ale)で、カスク・エールの製造では世界一ということである。ビール醸造所6ヶ所、経営するパブは約1,600軒、年間売上高約1,500億円である。
醸造プロセス
写真3.マッシュ・タン:エールの仕込みはラガー・ビールと異なり、仕込み槽一つの中で麦芽のエキス分を温水で抽出するインフージョン法である。この小さな仕込み槽は簡単な構造で、麦層を攪拌するレイク(Rake)もなく、麦芽3.5トンから4トンの仕込みを行う。
ジェニングス・ビール醸造所はエールを伝統的な方法で製造する。ベースとなる麦芽はイングランドのペール・エール・モルト。それに、チョコレート・モルトやホップでフレーバーの特徴をつける。仕込みの水は湖水地方から流れ出る伏流水を井戸で汲み上げて使っている。
仕込みの設備は、典型的なエールの仕込み工程である仕込み槽(マッシュ・タン)、ケトル(ホップを加えて麦汁を煮沸する)、ホップの濾過槽から成る。仕込み槽で固形分を濾過して麦汁を製造するのでラガー・ビールのような煮沸釜や濾過槽は無い。仕込み槽でのマッシュの温度は最初65℃で仕込んで一番麦汁を濾過、それから順次高温の温水を麦層の上から散布してエキス分を回収する。
仕込み槽から濾板を通って流れ出てくる麦汁は煮沸釜に送り、ホップを加えて煮沸する。
写真4.ホップ置き場:使っているホップは、最近大規模なビール工場で使われているペレットではなく、収穫した毬花を乾燥させたものをそのまま使っている。後ろの壁の黒板にChallenger, Golding等のイングリッシュ・ホップの品種が書かれている。
使用しているホップの主力は、イングランドの伝統的品種のゴールディングで、マイルドなスパイス、ハニー、土様のフレーバーがあり、苦みもそれほど強くない。ご承知のようにホップは、雌雄異株の蔓性の植物で、分類上はイラクサ目(Ulticales)、麻科(Cannabaceae)、からはなそう属(Humulus)、ホップ種(H.Lupulus)に分類される。ビールの醸造に使われるのは雌株の毬花を乾燥させたもので、イングランドのエールでは受粉して種のあるものを使っているが、ヨーロッパ大陸のラガー・ビールには受粉していないものが使われるので、間違ってもホップ園に雄株のホップを植えることは法に触れる。このラガーの未受精のホップ花崇拝は神話ではないかという見地から、比較実験も行われていて、有意差なしという報告も2、3見たが現状は変わらず、ヨーロッパとアメリカでのホップの規格は含まれている種子の量は4%(w/w) 以下、これに対してイングランドのエール用のホップには25%の種子が含まれている。
写真5.発酵中のエール:発酵槽の中を見たところで、ビールの液面はクリーム状の酵母の泡で覆われている。この泡はヴァキュームで吸引して酵母の貯蔵タンクへ集め、次回の発酵に使用する他、余った酵母は酵母製品を製造する会社に売却する。
ホップ・ボイルの終わった麦汁は冷却して発酵槽へ送り、酵母を加えて発酵させる。エールの発酵に使われる酵母は、上面発酵酵母と言われるがこれは発酵中に液面に浮かび上がってくる性質がある為である。比較的高温を好み、15〜25℃で発酵させると数日で発酵を終了する。上面酵母は、学名をサッカロミセス・セレビシエ(Saccharomyces cerevisiae)といい、人類が太古の昔からワイン、ビール(エール)、パン造りに利用してきた種類である。
これに対し、ラガー・ビールに使われる酵母は、サッカロミセス・パストリアヌス(Saccharomyces pastorianus)という別種で、7〜12℃の低温を好み、発酵中は液中に留まるので下面酵母と言われている。S.パストリアヌスは新しい酵母で、15世紀にドイツのババリア(Bavaria)の山奥の僧院で見つかった。この酵母はS.セレビシエと他の別種との交雑種であることは分かっていたが、その交雑した他の酵母の正体は長年謎で、酵母学者が懸命に見つけようとしてきた。いくつかの候補となった酵母があったが、近年の遺伝子解析で最も近いものでも72%しか説明できず学者達の頭を悩ませてきた。ところが、2010年のことである。アルゼンチンの学者グループが、南米パタゴニアのブナの林で、ブナの木のカビによる病変組織の中で生息していた酵母、サッカロミセス・ユーバヤナス(Saccharomyces eubayanus)の遺伝子配列が、ラガー酵母S.パストリアヌスのS.セレビシエ以外の構成要素と99.5%一致することを発見した。これで、ラガー酵母がS. cereviseaeとS.eubayanusの交配から生まれたことはほぼ間違いないのであるが、それではドイツのババリアで生まれたラガー酵母の親は15世紀に南米チリのパタゴニアからドイツのババリアの僧院まで行き着いたS. eubayanusであったというのは考えにくい。その後、S. eubayanusは、北アメリカやチベット高原でも発見され地理学的な説明はこちらの国の方が付きやすい。以上、現在世界のビールの95%を占めているラガー・ビールの原点となったババリアの僧院でのラガー酵母の歴史の一幕です。
見学の終わりは場内のバーでの試飲である。ジェニングスの製造品目は4つで多くないが、典型的なイングリッシュ・エールの、フルーティー、ホッピィー、スパイス様の味わいで、くつろぎながらゆっくり飲むのにぴったりだった。
参考資料
1. https://www.jenningsbrewery.co.uk/
2. https://www.lgiu.org.uk/local-government-facts-and-figures/
3. https://en.wikipedia.org/wiki/Metropolitan_and_non-metropolitan_counties_of_.England
4. http://www.marstons.co.uk/
5. https://www.britishhops.org.uk/varieties/
6. https://en.wikipedia.org/wiki/Saccharomyces_bayanus