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稲富博士のスコッチノート

第119章 アイラ島蒸溜所総巡り−4.アードベッグ蒸溜所

写真1.アードベッグ蒸溜所のオールド・キルン:このパコダ型のキルンはチャールズ・ドイグの設計で、1887年にアルフレッド・バーナードが訪問した時のスケッチに見る事ができる。その前々年か前年に完成したものと思われる。麦芽の乾燥にはピートだけを燃料にしていた。現在はビジター・センターとカフェになっている。

キルダルトン(Kildalton)は、アイラ島の南側約3分の1の地域のパリッシュ(最小の行政区で、昔は教会の教区であった)で、約13㎞の幅で北東から南西に向かって広がっている。面積は約195平方㎞あり、東京都なら八王子市の面積に近い。前章でご紹介したポート・エレンから東に向かう海岸線数㎞以内に、現在操業しているラフロイグ(Laphroaig), ラガヴーリン(Lagavulin), アードベッグ(Ardbeg)の3蒸溜所がある。いずれのモルト・ウイスキーも強いピート香をもつアイラ・スタイルで著名である。

蒸溜所のウェブサイトによると、アードベッグ蒸溜所は1815年にここで農業を営んでいたジョン・マックドゥーガル(MacDougal)によって正式にライセンスを取った蒸溜所として始まった。それ以前もアードベッグのファームでは当時スコットランド中がそうであったように、農家が農作業の無い秋から翌年の春まで自家で採れた穀物を原料としてウイスキーを蒸溜することが長年行われていて、マックドゥーガルも倒産したファームをテナントとして1798年に引き継いで農業と蒸溜を行っていた。密造であるがアイラ島の密造の取り締まりはグラスゴーの税務署の管轄であり、簡単に行けるところではなかったので長年目溢し(めこぼし)であった。

アイラ・モルトを創った人々

1726年から1847年までの121年間、アイラ島の領主はショーフィールドのキャンベル家 (Campbells of Shawfield)であった。アイラ島を最初に所有したダニエル・キャンベル(Daniel Campbell)は有能な商人で、タバコ業、鉄鉱石、金融や奴隷の取引で財を成し、グラスゴー東隣りのショーフィールの領主となりグラスゴー選出の国会議員であった。1725年にそれまでイングランドと比べて低く抑えられていたスコットランドの麦芽税を、イングランドと同じにするという法案に賛成したため、グラスゴーで発生した暴動によってグラスゴー市内の邸宅を襲撃された。邸宅の破損に対する補償金£9,000をグラスゴー市から得たダニエルはそれを基にアイラ島と隣のジュラ島の一部を£12,000で購入してアイラ島の所有者となったのである。広大な土地の所有者はレイアード(Laird)のタイトル(貴族の男爵の下)を与えられた封建領主で、多くは土地の経営と議会の議員を務めている。アイラ島のダニエル・キャンベルは亜麻の栽培の導入など島の農業の改良を目指した。彼は巨躯と膨大な富で「Great Daniel」と呼ばれた。Great Danielは1753年に死去、所領は未成年だった16才の孫の「Daniel the Younger,1737-1777(ダニエル・ザ・ヤンガー)」に引き継がれた。

ダニエル・ザ・ヤンガーは開明的な領主でアイラの発展に尽力した。ボウモアの町を建設、ラウンド・チャーチを建て、鉛と銅の鉱山を開発し漁業を振興した。ダニエル・ザ・ヤンガーは1777年に独身のまま40才で亡くなり、跡目は末弟のウォルター(Walter Campbell,1741‐1816)が継いだ(2000年ベースで約11億円*という膨大な借金も入れて)。

*全ての金額の推定は、資料2.Jefford (2004)が挙げている数字をベースに試算したが大雑把であり正確な数字が必要な場合は再検証が必要と思われる。

ウォルターはアイラの道路や村の整備に力を入れ、リネン(麻)、漁業、鉱山、ウイスキー(密造だが)、じゃがいもの導入もあってアイラの人口は1755年の5,300人から最初の国勢調査が行われた1802年には8,363人に増えた。ウォルターの時代は彼が亡くなる1816年まで39年の長きに及んだ。彼は1789年から2年間アダム・スミスの次にグラスゴー大学の学長を務めるほどの人物だったが、子沢山でも有名で2回の結婚で15人の子供に恵まれている。

写真2.ウォルター・フレデリック・キャンベル (1798-1855):1726年から始まったアイラ島の領主キャンベル家の4代目で最期の領主となった。
Acknowledgment: National Galleries of Scotland

1816年にウォルターが亡くなった時に長男のジョンは既にこの世を去っていたので跡はその子供(ウォルターの孫)のウォルター・フレデリック・キャンベル(Walter Frederik Campbell,1798‐1855)が継いだ。まだ18才だった。ウォルター・フレデリックは男前、強靭でアクティブ、スポーツ好きと人気のある要素を備えていた。前章で述べたがポート・エレンやポート・シャーロット(Port Charlotte)を建設した。

しかしながら、ウォルター・フレデリックが治めた時代のアイラは非常に困難な時代だった。人口は大幅に増え1831年には15,000人に達したがナポレオン戦争後の英国全体の不況の影響もあり農業を中心としたアイラの経済も大打撃を受け島民の生活も悲惨な状態だった。追い打ちをかけたのは1840年代中頃アイルランドで起こったじゃがいも飢饉の病害菌がアイラ島にも伝搬して多くの農民が飢餓に見舞われたことである。農民は払いたくても賃借料を払えず、積みあがった延滞金はウォルター・フレデリックが倒産した1847年には約4億円にも上った。ウォルター・フレデリックの負債総額は約100億円、資産は管財人のもとに移され1853年にイングランドの富豪ジェームス・モリソンに約55億円で売却された。ウォルター・フレデリックは心労のあまり健康を損ない息子のジョンのアドバイスに従ってフランスのノルマンディーに半ば亡命のように移住したが1855年に死亡、その地に葬られた。ポート・エレンに名を残した妻のエリーナの墓はボウモアの円形教会にあり、ウォルター・フレデリックは愛妻の元へ戻ることが出来なかった。

アイラ・ウイスキーの基盤を作ったのはウォルターとウォルター・フレデリックである。現在操業してい9蒸溜所の内のボウモア、アードベッグ、ラフロイグ、ラガヴーリン、カリラの5蒸溜所と後に閉鎖されたポート・エレン、アーデニスティール(Ardenistiel)、ポート・シャーロット、オクトモアの4蒸溜所はこの二人の時代に正式のライセンスを取得した蒸溜所としてスタートしている。ウォルターは法執行官、ウォルター・フレデリックは国会議員でもあったので、自分の領内で密造を容認する訳には行かなかったという事情もあったが、ウイスキーを密造から正規のライセンスを取得した産業とすることに注力した。

もう一人、アイラのウイスキー産業の形成に欠かすことの出来ない人物がいた。ジョン・ラムゼイ(John Ramsay、1815‐1892)である。独学・独歩の人物で、教育は自宅の近くの教会の牧師から読み書きを習った程度、生家はグラスゴーの北東約50㎞のアロアの町で製麦と蒸溜業を営んでいたが事業は上手く行っておらず、父親は店を畳んでカナダへの移住を決めていたのでジョンは12才でグラスゴーへ働きにでた。18才の時にスターリングで会計士をしていた叔父からアイラのポート・エレン蒸溜所の経営状態を調べて欲しいと依頼されポート・エレンへやってきた。蒸溜所の管理状態は良くなかったが、改善すれば将来性はあると見たジョンは叔父にその旨報告したが、本人はウイスキー造りに関心を持ち、一旦アロアに戻って蒸溜のトレーニングを受けてからポート・エレン蒸溜所のマネージャーになっている。数年後、ポート・エレンの賃借人が死亡した時にウォルター・フレデリックは蒸溜所とライセンスを買い取り、ジョン・ラムゼイと土地及び蒸溜所の賃貸契約を結んでいる。

ウォルター・フレデリックはジョン・ラムゼイの高い経営能力を知っていて、彼とアイラ島の経営についても相談していた。ジョンはアイラ島の財政が危機的状況にあることをウォルター・フレデリックに忠告していたが時既に遅く、前述のように1847年にウォルター・フレデリックは倒産した。ウォルター・フレデリックとの契約と自己資金でジョンはキルダルトンを取得、キルダルトンの5つの蒸溜所、ポート・エレン、アーデニスティール、ラフロイグ、ラガヴーリン、アードベッグの地主になりそこから毎年賃借料を受け取るので実質的には所有者となったのである。ジョンはアイラの農業改革、グラスゴーとアイラを結ぶフェリー会社の設立、カナダへの移住によるアイラの過剰人口問題の解決、スコットランドの教育委員会委員、国会議員を2期務めている。「偉大な知性と現実性のある分別力、先進性と人道主義を備えた大地主」と称された。しかしながら世の栄枯盛衰は避けがたい。キルダルトンの経営は次第に困難になり1892年に後を継いだイアン・ラムゼイは1920年頃に全ての蒸溜所の権利を手放さざるを得なくなったのである。

Great Danielが1726年にアイラ島を購入してから4代**、121年でキャンベルによる統治の時代は終わった。問題も多々あったがキャンベルとウォルター・フレデリックの時代に現在のアイラの形が作られたのは事実である。キャンベルはアイラ・ハウスのような豪邸に金も使ったが、島民の事を考えこの時代にハイランドを吹き荒れたハイランド・クリアランス(羊の放牧の為に長年住んでいた農民を追い出した)はほぼ行わなかった。

**前章(スコッチノート第118章)でキャンベルの時代を6代と書いたのは家系の世代でアイラ島の統治者は4代です。

アードベッグ蒸溜所の歴史

1798年:ダンカン・マクドゥーガルが、アードベッグ・ファームのテナントとして農業と蒸溜を始める。

1815年:ダンカンの子のジョンがコマーシャル・ベースで蒸溜を開始。当時の蒸溜所がどのようなものだったかは分からないが、精々身の丈ほどのポットスティルで蒸溜する程度と思われる。

1838年:ウォルター・フレデリックがグラスゴーのブキャナンに57年間の蒸溜所と農場のリースを保証し蒸溜所を売却。蒸溜所のマネージメントはジョンの息子のアレキサンダーが引き継いだ。

1850年:アルコール依存で病弱のアレキサンダーを補佐する為妹のマーガレットがマネージメントに参加。蒸溜所の実務はウォルター・フレデリックの馭者をしていたヘイ(Colin Hay)が担当。有能だったヘイの下蒸溜所とファームは盛業し、アードベッグの村には200人が暮らした。

1855年:キルダルトンのエステートは長年ウォルター・フレデリックを補佐してきた敏腕のビジネスマンのジョン・ラムゼイがオーナーになる。

1886年:アルフレッド・バーナードが蒸溜所を訪問。麦芽の乾燥はピートだけで行うこと、鋳鉄製の仕込み槽は直径16フィート、深さ5.5フィートで新式の撹拌機を備えていること、容量8,000ガロン(36kl)の発酵槽が8基あり、4,000ガロン(18kl)の初溜釜と3,000ガロンの再溜釜が各一基、ウイスキーはブレンド用に人気が高く年間の製造量250,000ガロン(1,140kl)は全量リバプール、ロンドンのスピリッツ・マーチャントに売れてしまうことを記録している。

1922年:ヘイとブキャナンの会社がジョン・ラムゼイの息子のイアン・ラムゼイからアードベッグ蒸溜所を購入。

1973年:DCLとハイラム・ウォーカーが合弁でアードベッグを購入。

1976年:アライド・ディスティラーズ社がDCLの持ち分を買い取り100%アードベッグのオーナーになる。しかしながら、1980年代のウイスキ―不況と隣接するラフロイグ蒸溜所との競合で低操業の時代が続く。

1997年:グレンモーレンジィ(Glenmorangie)社がアードベッグを購入し、シングル・モルト専用の蒸溜所として再稼働。

現在のアーベッグ蒸溜所

2019年3月時点でのアードベッグ蒸溜所の主要諸元は下記の通りである。

写真3.仕込み槽: 1961年に設置されたニューミル社製の鋳鉄製のマッシュ・タンの側板を残し、そこに新しいステンレス製のマッシュ・タンをはめ込んでいる。100年物の粉砕機もそうだが、伝統的なものを出来るだけ残したいという方針の現れである。

● 麦芽:場内のフロアー・モルティングは1974年に終了し、以後ポート・エレンの製麦工場から購入している。フェノール値50ppmの高フェノール麦芽である。

● 粉砕:1919年製のロバート・ボビー社製の2段式ローラーミル。100年以上使用され、スコッチの蒸溜所で一番古いと思われる。粉砕粒度はフラワー10%、グリッツ70%、ハスク20%と標準的。従来粉砕中に除去されていた麦芽の穀皮を回収して仕込みに使うことでフェノール成分の回収率を大幅に改善した。

● 仕込み:ステンレス製のセミ・ラウター型のマッシュ・タン。1仕込み5トンの麦芽から23klの麦汁を製造する。麦汁の清澄度は中。週に16仕込みを行う。

写真4.蒸溜室:手前が初溜釜、奥が再溜釜である。加熱は蒸気、シェル&チューブ式のコンデンサーは屋外にある。丁度梁に隠れて見えないが、再溜釜のライン・アームにはピューリファイアーがあり、ウイスキー蒸気中の重い成分を再溜釜に還流させる働きをしている。

● 発酵:仕込み容量23klの木製発酵槽が6基。マッシュ・タンからの1、2番麦汁を温度18℃に冷却し発酵槽に投入する。酵母はアンカー社製の乾燥酵母を25㎏添加し発酵時間は65時間以上、発酵終了醪のアルコール度数は約8.2%である。

● 蒸溜:初溜釜18kl(醪の張り込み量は11.5kl)が1基、1回の蒸溜時間は5〜5.5時間。再溜釜17kl(張り込み量は13kl)が1基。再溜のプログラムは、前溜が約15分、本溜が5.5時間、後溜が約3〜5時間、本溜のカット範囲は72%から58%である。後溜への切り替えの度数が低いがこれはピーティーな香り成分が蒸溜の後半以降に溜出してくるためである。再溜釜のライン・アームにはピューリファイアーがあり再溜での精留度を高めているが、これはカット度数が低い事でスピリッツに後溜臭が着くことを避けるのに効果があり、スピリッツをクリーンなものにしている。現在の生産量は年間約1,2mlpa***である。

● 貯蔵:スピリッツの大半はバーボンの1stと2nd fillに詰められ、蒸溜所内の伝統的なダンネージ(Dunnage、輪木積)倉庫かラック貯蔵庫で貯蔵される。

***mlpa (Million Liters of Pure Alcohol)は100%アルコール換算で百万リッター(千キロリッター)である。

増設計画

アードベッグは小さな蒸溜所で、シングル・モルト上位のグレンフィディック、ザ・グレンリベット、マッカラン等の大型蒸溜所に比べると10分の1の規模である。現在は生産される全てのモルトはシングル・モルトに向けられるがモルト・ウイスキーの、中でもスモーキーなアイラ・モルトの人気の高まりの中でその個性的な品質の評価は高く将来の供給不足が予想され、訪問時には能力を倍増する建設作業が進行中であった。新しい蒸溜室を作り、そこに現在の2基のポットスティルに加えて新たに2基を追加し、現在の蒸溜室は発酵室に転用する計画である。

写真5.アードベッグの新蒸溜室:海に面してあった古い貯蔵庫跡に新蒸溜室が建設中であった。説明パネルによるとArdbeg Renaissance Revisited (アードベッグのルネッサンス再体験)とあり、蒸溜室から広いガラス窓を通してアードベッグ湾の景観が広がる設計になっていた。

Ardbeg Cafe

1997年にグレンモーレンジィ社がアードベッグ蒸溜所を買収してから、設備の大改装と蒸溜所の再稼働という大仕事に任命されたのはグレンモーレンジィ蒸溜所にいたステュワート・トムソンである。アードベッグ蒸溜所は生産設備の整備と並んで旧キルン内にビジター・センターとカフェを設ける事になり、そのマネージャーにステュワートの夫人のジャッキーが就いた。始めは簡単な喫茶だけを考えていたそうだが、食に強い関心と情熱を持っていたジャッキーは本格的なメニューを開発・導入し今では5つ星の高評価を得るまでになっている。

写真6.クルーティ・ダンプリング:クルーティー(Clootie)はスコットランドでCloth(布)の事。材料を布袋に入れて調理することから名がついた。オールド・キルン・カフェの人気デザートの一つでスコットランドの家庭でつくられてきた。小麦粉、砂糖、スパイス、塩、ベーキング・パウダー、レーズン、ミルク、卵を混ぜ布袋に入れて熱水中でボイルする。生クリームをかけて食べる。

アイラ・ウイスキーの成立からアードベッグの再興まで少々長くなりましたがこれで終わります。

  • 参考資料
  • 1. Barnard, Alfred (1969 Edition). The Whisky Distilleries of the United Kingdom.David Charles (Publishers) Limited.
  • 2. Jefford, Andrew (2004). Peat Smoke and Spirit. Headline Book Publishing, London.
  • 3. Wilson, Neil (2003). The Island Whisky Trail. Neil Wilson Publishing. Glasgow.
  • 4. https://www.ardbeg.com/en-int/about-ardbeg/history
  • 5. https://www.genuki.org.uk/big/sct/ARL/Kildalton/
  • 6. https://www.islayinfo.com/islay_campbells_campbell.html
  • 7. https://scotchwhisky.com/magazine/whisky-heroes/19597/john-ramsay-port-ellen/
  • 8. https://electricscotland.com/history/ramsay/chap1.htm
  • 9. https://foodanddrink.scotsman.com/food/a-history-of-the-clootie-dumpling-including-a-recipe-for-making-your-own/