写真1.ブルックラディ蒸溜所のDunnage(輪木積)貯蔵庫:露地に輪木を2本並べてその上に樽を置き、2段目は1段目の樽の上に輪木を置いてその上に樽を並べて行く伝統的な貯蔵方法である。作業は人手によるし、建物に収容できる樽数も少なく効率は悪いが、樽の空積率が低い、上下、季節の温度・湿度差が少なく、露地から水分が蒸発して湿度を適当に保つので熟成に良い効果がある。
写真1.ブルックラディ蒸溜所のDunnage(輪木積)貯蔵庫:露地に輪木を2本並べてその上に樽を置き、2段目は1段目の樽の上に輪木を置いてその上に樽を並べて行く伝統的な貯蔵方法である。作業は人手によるし、建物に収容できる樽数も少なく効率は悪いが、樽の空積率が低い、上下、季節の温度・湿度差が少なく、露地から水分が蒸発して湿度を適当に保つので熟成に良い効果がある。
1881年創立のブルックラディ(Bruichladdich)蒸溜所は、今でも創立時の設備をほぼそのまま使用して生産を続けていて、「操業している博物館」と言われている。その一方で、イノベーションの気性に富み、従来のスコッチ・ウイスキーの枠を越えた物つくりと消費者とのコミュニケーションを行っており、独立した会社としての自由度の高さを生かして、大手ではできないニッチに特化している。
ロケーションは、ボウモア(Bowmore)の町から北東方向へA846号線を約5㎞数分走り、ブリッジエンドの集落で左へA847に入りロッホ・インダール(Loch Indaal)を左に見ながら約10㎞、10分の距離にある。ロッホ・インダールは、ロッホといっても海湖(Sea Loch)で入り口は大西洋に開いている。蒸溜所は道路を挟んでロッホの反対側にあり、ゲートを入ると製麦棟、生産棟、貯蔵庫、オフィス等の建物に囲まれたスクエアーがあり、原料の搬入や製品の積み出しと見学客の出入りに使われている。
蒸溜所の歴史
史上の主な出来事は下記の通りである。
1881年:グラスゴーにダンダスヒル(Dundashill)モルト蒸溜所とヨーカー(Yorker)グレイン蒸溜所を所有していた大手ディスティラーのハーヴェー社が建設。他の古いアイラ蒸溜所が、粗末な農家の物置から始まっているのと対照的に、ブルックラディは蒸溜所として設計され、建物に当時新素材だったコンクリートを使用する等最新鋭の蒸溜所だった。時代背景はぶどうに寄生するフィロキセラ(Phylloxera)によってフランスのブランデーが壊滅的な打撃を受け、代替としてブレンデッド・スコッチの需要が急拡大していて、ブレンダーのアイラ・モルトの需要が高かったことがある。
1889年-1939年:1889年のパティソンズ事件(Pattison‘s affair)* 、1914年―1918年の第一次世界大戦、1920年―1833年のアメリカの禁酒法、1929年―1939年の大恐慌にハーヴェイ社は耐えられず、ダンダスヒル蒸溜所は19世紀末に閉鎖、ヨーカー蒸溜所はDCLに買収され、ハーヴェー家にはブルックラディ蒸溜所だけが残った。蒸溜所は1929年から1936年まで閉鎖された。
1938年:ジョセフ・ホッブス(Joseph Hobbs)**が買収。
1952年-1968年:Ross & Coulter (Whisky blender), DCL, AB Grant(Distiller & Blender) とオーナーが変わった。
1968年:Invergordon社が購入。
1975年:蒸溜釜2基(初・再溜各一基)を増設。
1980年:スコッチ・ウイスキーが10年におよぶ大不況に陥り、ブルックラディ蒸溜所の操業度は週一仕込み程度の低操業だった。
1993年:ホワイト & マッカイ(Whyte &Mackay)社がInvergordon社を買収し、ブルックラディ蒸溜所はホワイト& マッカイの傘下に入ったが、モルト蒸溜所の能力過剰でほとんど休止状態が続いた。
2000年:マーク・レイニェー(Mark Reynier)が率いるワイン・マーチャント兼ウイスキーボトラーのMurray McDavid社とボウモア蒸溜所を辞めたジム・マッキーワン(Jim McEwan) 他2名の投資家が£6m(約9億円)で買収。
2012年:フランスのレミー・コアントロー(Rémy Cointreau)が £58m(約87億円)で買収した。
以上の経緯から明らかなように、ブルックラディ蒸溜所はハーヴェー時代の最初の10年間程と2000年のレイニェー/マッキーワンがオーナーになって以降以外の約100年間は、外部要因もあるが経営が頻繁に変わり、安定した生産は行われなかった。ワイン評論家で、アイラとアイラの蒸溜所の物語(Peat Smoke and Spirit)を活写したアンドリュー・ジェフォード(Andrew Jefford)によると、アイラの蒸溜所の中でブルックラディ蒸溜所は「The most unloved distillery」であった。
MarkとJim
「The most unloved distillery」のブルックラディ蒸溜所の将来性を洞察して2000年に購入し、現在見るような独自性に富んだ蒸溜所に再建したのはマーク・レイニェーとジム・マッキーワンである。マークは、イングランドの都会の教養をもった小さなワイン・マーチャント、カトリック、現実派、ラグビー・ファン、一方ジムはアイラ生まれのアイラ育ち、経歴はウイスキーの大会社、プロテスタント、レンジャーズ・ファン(レンジャーズはグラスゴーのプロテスタントがサポーターのフットボール・クラブ)、ケルト人(ケルトは迷信や神話が豊か)と対照的で、お互い理解しあうのに時間がかかったという。共通していたのは、ワインとウイスキーに関する品質の理解、誇り、情熱、やる気、親切心、テースティングの力量、決意、想像力、好奇心、ビジョン等であった。ブルックラディ蒸溜所の「テロア」コンセプト、伝統的価値の重視、現場主義、理屈よりやってみる等のスタイルはマークとジムの個性に依るのは間違いない。
ブルックラディ蒸溜所のウイスキーつくり
冒頭に述べたがブルックラディ蒸溜所の設備は古い。創業と設備の古さでは公称1825年のピットロッホリーのエドラダワー蒸溜所の第一蒸溜所の方が先であるが、エドラダワー蒸溜所は増設後でもスコッチの蒸溜所の中で最小のミニ蒸溜所であり、ブルックラディ蒸溜所はエドラダワー蒸溜所の10倍以上である。プロセスの諸元は下記の通りである。
原料
「テロア」のコンセプトを具現する為最も重視しているのは大麦である。スコットランド産の大麦のみを使用し、古い六条大麦のベア種(Bere)をオークニ―で調達しアイラでの栽培もおこなっている。製麦はインヴァネスのベアーズ(Baird’s)に依頼している。
写真2.ボビー社製の2段ローラー・ミル:動力はモーターからベルトでローラーへ伝達している。
粉砕機
右の写真2の粉砕機はイングランド南東部、サフォーク州のベリー・セント・エドマンドにあったロバート・ボビー社が1913年に製造したモルト・ミルである。
ボビー社はもう存在しないが、このモルト・ミルは100年以上を経過している。
問題は故障すると部品がないことである。1仕込み分7トンの麦芽の粉砕に約3時間を要する。スコッチの蒸溜所で使われている粉砕機で最も古い。
因みに、1924年に操業を始めたサントリーの山崎蒸溜所も小型のボビー・ミルを使っていて、現在同社白州蒸溜所にあるウイスキー博物館に収納されている。
写真3.マッシュ・タン:カバーなし、レーキ(撹拌機)を動かすシャフトはマッシュ・タンの上に置かれたモーターで駆動する。
仕込み
仕込み槽は1881年製のマッシュ・タン。本体は鋳鉄製で直径5m、深さ2m、1回の仕込み量は麦芽7トン、仕込みのサイクル時間は8時間である。仕込み方法は、粉砕麦芽をマッシング・マシーンで温水タンクに貯めておいた前回の仕込みの3番麦汁(温度約67℃)と混合して仕込み、全体をざっと攪拌して20分程静置してからゆっくりと1番麦汁を抜き切る。次いで温水タンクの前回の4番麦汁(温度86℃)を加えて全体を均一に混合してから2番麦汁を採取する。この1番と2番麦汁は22度に冷却して発酵槽に送る。再度、温水(88℃)を加えて全体を攪拌してから3番麦汁と4番麦汁(温度90℃)まで回収する。 3,4番麦汁は次回のマッシングと2番麦汁用に回収して温水タンクに保存する。この古い回分式の仕込み方法は、麦層中のエキス分の回収を2-4番の3回の「希釈」で行う為に時間と回収のロスが大きい。現在、スコッチのモルト蒸溜所では、1番の濾過中に液面が麦層の数㎝上まで下がった時点で温水の細かい水滴を液面全体に散布(Sparge)し始め、最後まで麦汁を連続式に回収するラウター式で行うのが普通である。マッシュ・タンの撹拌機はマッシュをかき混ぜる為で、その異様な形から「ロッホネス・モンスター」と綽名されている。
写真4.発酵槽:木桶発酵槽は通常なら6基あり、容量は各36klである。手前の空間は、古くなった発酵槽を新しいものに入れ替えるために生じた。
発酵
容量36klの木桶が6基あり、その材質は、古いものはオレゴン・パインだが、更新する場合(通常木桶の寿命は50-60年)スコットランド松を使うようにしている。酵母はディスティラーズ・イースト。発酵時間は60‐70時間(週末は約100時間)、温度経過は22℃でスタートしてから34℃まで昇温する。発酵中の泡立ちを抑えるために使用するスイッチャーは取り外しているが、これは麦汁をやや濁ったものに変更したことと、高泡になった時には消泡剤を使用する。発酵終了醪のアルコール度数は約8%である。
写真5.蒸溜室:初溜釜(張り込み12kl)、再溜釜(張り込み7kl)が2ペアある。蒸気加熱。冷却器はシェル&チューブ型。
蒸溜
初・再溜各2基のポット・スティルを備え、スタンダードは2回蒸溜である。初溜時間は5時間弱で初溜液のアルコール度数は約23%、再溜は約7時間をかけている。主力のノン・ピーテッド・スピリッツのアルコール度数は約72%、ヘヴィリー・ピーテッドのポート・シャーロット(Port Chalotte)とオクトモア(Octomore)それぞれ71%、70%と低いがこれはピート・フレーバ―の成分のフェノール類が再溜の後ろの方で溜出する為である。標準的な2回蒸溜に加えて3回蒸溜と4回蒸溜も行っている。
貯蔵
特別な樽を使ってウイスキーを熟成させた特製品を作るのは、樽職人から業界に入ったジムや高級ワインのマーチャントのマークには自分たちの専門分野でもある。標準的なバーボン・バレル、シェリー樽に加えて、著名なワイン・シャトーから入手したワイン樽が目を引く。超高級品として発売されるだろうからまだ15年、20年を待つ必要がありまさにウイスキー造りのニッチの極みである。
写真6.熟成に使用されているフランス・ワインの樽:左からCh. Petrus, Ch. d'Yquem, Ch. Mouton Rothschildといずれも第一級のシャトー・ワインの空き樽を集めている。
アグリー・ベティーとボタニスト・ジン
写真7.Ugly Betty: 元はバランタイン社のダンバートン蒸溜所にあったインヴァー レリーヴェン・モルト蒸溜所で使われていたローモンド・スティル。ポット・スティルの ネックに還流用の棚があり、上部のセクションは水冷式のジャケットになっている。
ブルックラディのような設備の古い蒸溜所を維持して行く一つの問題点は老朽化して使えなくなった設備の部品の入手であり、中古品が手に入る可能性に聞き耳を立てておくことが重要である。2005年のことである。バランタイン社のダンバートン・グレイン蒸溜所は2002年には休止していたが、早晩取り壊されるという情報を耳にしたブルックラディ蒸溜所のジムと設備担当のダンカンはダンバートン蒸溜所の中にあったInverlevenモルト蒸溜所を訪問、何か使えるものは無いか探した。多くの品物の中に、初めはどうしても欲しいという理由は無かったがなんとなく心に引っ掛かったのがローモンド・スティルである。1956年にバランタイン社のエンジニア、アリスター・カニンガム(Alistair Cunningham、後にアライド・ディスティラーズ社社長)が開発したこの蒸溜器は、ポット・スティルにカラム・スティルを接ぎ木したような不格好な形をしていて、もし誰かが引き取らないとスクラップにされてしまうと思われ購入することにした。アイラで最初のジンの蒸溜に使う着想を得たからである。蒸溜器の名前は、スタイリッシュではないが持ち前のやる気で偏見に満ちたファッション業界で成功を収めるアメリカのTVシリーズの主人公のBettyに因んで命名された。
ウイスキーと同様に、アイラ・ジンのコンセプトの一つは「テロア」で、その為に使うハーブを極力アイラ島で探すことにした。結果として全部で31種のボタニカル中22種はアイラ島で採取されたものを使い、残りの9種はジンの伝統的な草根木皮である。アイラ産のハーブは春から秋にかけて収集して乾燥し、使うときは蒸溜器の上部のライン・アームにあるバスケットに入れる。香気成分は釜から蒸発してくるスピリッツの蒸気で抽出される。一方、9種のジンの草根木皮は蒸溜前に数時間スピリッツに浸漬しておいてから蒸溜を始める。1回の蒸溜時間は16‐17時間である。
かってアイラで「The most unloved distillery」と言われた貧乏蒸溜所だったブルックラディ蒸溜所は「The most popular distillery」に変身した。「操業している博物館」も戦略的に古い設備を温存したというより近代的な設備をいれる資金が無かったというのが本当のところだろうが、それを逆手にとってメリットに変えた。イノベーションの源泉は資金や技術だけでなく、知恵、情熱、夢、自由な発想、一杯の遊び心にもある。
*:超強気の事業見通し、斬新且つ金に糸目をつけない販売促進で事業を拡大していたエジンバラのブレンダー、パティソン社が倒産し、多くの蒸溜所、ブローカーが連鎖倒産してスコッチ・ウイスキーが大不況に陥った事件。裁判で明らかになったが、ブレンドはいかがわしく、会計は不正でオーナー経営者のパティソン兄弟は禁固刑に処せられた。
**:スコッチ・ウイスキー業界の「怪人」。1891年イングランド生まれだが、カナダのブリティッシュ・コロンビアへ移住して牧畜業をやり、第一次大戦中は英海軍の駆逐艦に乗り後に航空兵、カナダ海軍の副司令官、アメリカの禁酒法時代は英国からGilby’s ginやTeacher’s Scotch whiskyをアメリカへ密輸、その為に自前の船団を持つ。禁酒法が廃止された1933年からスコッチ・ウイスキーの輸出の為に多くの蒸溜所を買収し盛時7蒸溜所を所有した。第二次大戦中の混乱で蒸溜所資産の活用ができず1953年にDCLへ売却した。1955年にベン・ネビス蒸溜所を購入しカフェー・スティルを導入した。
お知らせ
新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、取材が困難な状況となっておりますためしばらくお休みとさせていただきます。
読者の皆さまにはご迷惑をおかけして誠に申し訳ございません。安全にお届けできるよう再開の準備を進めてまいりますので、引き続きご愛顧を賜りますようお願い申し上げます。