写真1.キルホーマン蒸溜所から見たロックサイド・ファームの麦畑。収穫が終わった後の丸く束ねた麦藁が点々と見える。
写真1.キルホーマン蒸溜所から見たロックサイド・ファームの麦畑。収穫が終わった後の丸く束ねた麦藁が点々と見える。
イングランドでウイスキーのボトラー*を経営して成功していたアンソニー・ウィルス(Anthony Wills)氏がアイラ島北西部のキルホーマン(Kilchoman)のロックサイド農場に農場主のマーク・フレンチ氏と組んで蒸溜所を建設したのは2005年である。それ以前にアイラで最後に蒸溜所が建設されたのが1881年なので124年ぶりに蒸溜所が出来たことになる。
*ボトラー:自社では蒸溜所を持たず、蒸溜所や市場から仕入れた樽入り原酒を適宜熟成させた後に瓶詰めして自社のラベルで販売する業者。
成功していたボトラーの仕事を捨て、有り金を全部はたいて成功するかどうか分からないリスクを取って蒸溜所を建設した理由についてウィルス氏はあるインタビューで、スコッチウイスキーの原点は農家が自分で育て収穫した大麦を使って蒸溜したことにある、今は農業とウイスキー造りが切り離されてしまっているが、原点である農家蒸溜をやってみたかったという。
1823年に新しい酒税法が制定されてライセンスが取得しやすくなり、正式に多くの免許を持った蒸溜業者が後のスコッチウイスキー産業の発展に寄与したが、それ以前蒸溜を行っていたのはほとんどが密造農家であった。ファーム・ディスティラーがスコッチウイスキーの原点と言って良い。その中で今に残るThe Glanlivet, Glenkinchie, Laproaig, Ardbeg, Lagavulin, Edradour, Pultney, Cardhu蒸溜所の創始者は農家であった。
尤も、ウィルス本人も認めているようにボトラーの仕事は瓶詰めするウイスキーを外部から樽で調達するが、この仕入れは結構不安定で、入手が難しかったり、価格の高騰に悩まされることもあって、それなら自分で蒸溜したいという気持ちもあったという。ボトラーが建設あるいは買収した蒸溜所の例としてはClydeside Distillery(2017), Strathearn Distillery(2013), Ardnahoe Distillery(2019)があるし、農家が建てたファーム・ディスティラリーとしてはDaftmill (2005), Ballindaloch (2015)、Arbikie(2015)がある(括弧内は創立年)。この内、Ballindalochのオーナーは広大なエステートを所有する貴族なので農家には当たらないが、地所にあった古い農家を改造して蒸溜所として自農園で栽培した大麦を使ってモルトを蒸溜している。
キルホーマンへの道
アイラ島北部の西側、リンズ(Rinns)半島にあるキルホーマンへの道のりは遠く狭隘である。Bowmoreの町から北東数㎞のブリッジエンドで左に折れBruichladdich蒸溜所の手前で右に曲がってB8018 へ入り西に向かう。道は狭い単車線の凸凹道で、周りは見渡す限りの草原、沼地、湿地、ヒースに覆われた原野で、ポツン、ポツンと農家が見えるだけであるが、この地域は貴重な動植物の保護地区である。Bowmoreから約30分で着く(スコッチノート第116章図1を参照ください)。
キルホーマン蒸溜所は大麦栽培から瓶詰めまでモルトウイスキー生産の全てを行っている。
写真2.キルホーマン蒸溜所の第2製麦棟:2017年に新設された。手前の高い建物がキルン、奥がモルティング・フロアーである。
製麦
アイラ産の大麦を原料にしてフロアー・モルティングで麦芽を製造する。製麦の条件は1バッチの大麦量は3トン、浸麦時間は24時間、発芽は4-6日、乾燥は最初の10時間はピートだけを焚き、後温水を熱源として乾燥させる。麦芽のフェノール値は25ppm。自家製麦で必要量の約30%を賄えるが不足分はポート・エレンの製麦工場から調達する。ポート・エレン麦芽のフェノール値は50ppmで、自社麦芽とブレンドして使用する。
蒸溜所
2005年に操業を開始した第1プラントと2019年に新設された第2プラントがある。2つのプラントは全く同じ仕様でつくられていて、背中合わせに配置されている。両プラント合計の仕様は、マッシュ・タンは仕込み量麦芽1.2トンが2基、1回の仕込みで6,000リットルの麦汁を取り発酵槽へ送る。発酵槽は10基。酵母はMauri社の乾燥酵母を使用し、発酵時間は3‐4日の長時間発酵である。初溜釜は2基で、1回あたりの張り込み容量は3,000リットル、再溜釜も2基で1回あたり初溜+余流1,600リットルが張り込まれる。現在の年産は純アルコール換算で約500キロリッターである。
写真3.キルホーマンの製造設備:手前が仕込槽(セミ・ラウター型)、奥左が初溜釜、中央に2基のコンデンサー、右に再溜釜の上部が見える。
貯蔵庫
貯蔵庫は低層のDunnage(輪木積)の3段積である。このタイプの貯蔵庫は出来るだけ露地を残しているので温度・湿度の変化がすくなく、また3段積なので上下の差も小さく熟成の進み方にバラツキが少ないという特徴がある。
写真4.キルホーマンの貯蔵庫:貯蔵庫は新しいが、伝統的な低層の輪木積。通路以外は露地のままで、湿気の出入りが自然に調整される。
蒸溜所は樽にも力を入れていて、シェリー、ポート、バーボンのファースト・フィル(第1回目の樽詰め)比率を高くしている。これらの樽は高価だが熟成は早く、キルホーマンが若いAgeで商品化できた理由の一つである。試飲した「100%Islay」はフローラル、スパイス、プラム、ピーティな香り、ダーク・フルーツ、バニラのフレーバー、スモーキーとフルーティーが後を引く後味であった。
キルホーマンは今では成功したベンチャー企業であるが、全て順調に来たわけでは無い。操業翌年の2006年には製麦棟のキルンで火災が発生しキルンの修理に半年かかり、蒸溜も数週間止めざるを得なかった。共同で蒸溜所を始めた農場主は友人では有ったが、ビジネスを一緒にやると上手く行くとは限らなかった。2015年にウィルスは農場を相当なプレミアムを付けて買い取り、以後自分の方針で経営を行うことが出来るようになった。
最大の試練はやはり資金繰りで何度も資金難に見舞われている。ウィルスは自分の持ち株比率の低下を覚悟で増資をして切り抜けざるを得なかった。新しくクラフト蒸溜所を始めたいと彼に相談に来る人に彼は忠告するそうだ。“蒸溜所を8億円で始めたら軌道に乗るまでにその倍の16億円要るよ”と。
アイラ・ライフ博物館(Museum of Islay Life)
写真5.アイラ・ライフ博物館:1929年に閉鎖され長年使われていなかった教会を利用して1977年に開館した。1200年に及ぶアイラの人々の生活と周辺で起こった出来事にかかわる品々を展示している。
キルホーマンに行った帰りにポート・シャーロット(Port Charlotte)にあるアイラ・ライフ博物館に立ち寄った。キルホーマンからB8018でA847に出て右折、ブルックラディ蒸溜所の前を過ぎてポート・シャーロットの村の入り口のすぐ右側にある。博物館の歴史は写真5のキャプションの通りであるが、慈善信託で設営され運営は理事会が、日々の管理はボランティアが行っている。
密造用ポット・スティル
博物館の展示品で目を引くのは18世紀に使われていた密造用のポット・スティルである。ブリッジエンドからポート・アスケイクに行く途中のバリーグラント(Ballygrant)の密造所で使われていたもので、バリーグラントのMrs. MacPhailが自宅にあったものを博物館に寄贈した。
スコットランドの歴史資料を電子保存しているカンモア(Canmore=Computer Application for National Monuments Record Enquiries)の資料によるとボディーは亜鉛製で容量約18リットルである。亜鉛は古来より銅との合金の真鍮として用いられた長い歴史を持ち、亜鉛メッキはトタンやグレーチングに広く使われている。何故バリーグラントの蒸溜所のポット・スティルに亜鉛が用いられたのか不明だが、バリーグラントには鉛の鉱山があり精錬も行われていたので、鉛と一緒に産出する亜鉛が用いられたものと思われる。
写真6.密造に使われたポット・スティル:物置で埃にまみれて発見された時は本体のボディー部分だけで、ヘッド、ラインアームとワームは無く後に展示用に制作された。ボディーも銅色に塗装されたと思われる。
アメリカ国旗
博物館の奥の壁に実物大のアメリカ国旗が掛かっている。いささか場違いの感があるがその背景には悲しく胸を打つ出来事があった。
悲劇は1918年に起こった。第一次世界大戦の最中、既に大戦に参戦していたアメリカのアンカー・ラインの豪華客船タスカニア号は、主として2000余人のアメリカの兵員と乗員380人余を乗せてニュージャージーから英国のリバプールに向けて航行していた。北アイルランドとアイラ島の間でアイルランド海峡へ入った所でドイツ海軍のUボートに魚雷攻撃され沈没した。時間は2月5日午後6時40分だった。乗っていた2000人以上が英海軍の2隻の駆逐艦に救助されたが200人以上が命を落とし、そのうち126人の遺体がアイラの海岸に流れ着いたのである。アイラの島人は可能な限り一人一人の識別記録を残し、ポート・エレンから数㎞西の海岸に軍人墓地を作って葬った。
写真7.Museum of Islay Lifeのアメリカ国旗:亡くなったアメリカ兵の慰霊祭に間に合うようアイラの主婦達が夜を徹して手作りした。アメリカのスミソニアン博物館の所有だがアイラ・ライフ博物館に貸与されている。
その後、亡くなったアメリカ軍人の栄誉を称える慰霊祭が行われたのだが、前日になってアイラには掲揚すべきアメリカ国旗が無いことが分り、これを知ったIslay House**の家政婦長のMary Armourと彼女の部下の3人の女性が、Islay Houseの大工のJohn MacDougalが持っていた百科事典にあった星条旗を手本に手に入った生地を使って手縫いした。完成したのは慰霊祭当日の午前2時だった。
**Islay House:1677年にSir Hugh Campbell of Cawdorが別荘として建設した。IslayのオーナーになったDaniel Campbellが購入し歴代のCampbells、Morrisonを経て現在は五つ星のホテルになっている。
アイラの主婦による手作りの星条旗は、慰霊祭でタスカニア号から生き残ったArthur Siplon二等兵によりマストに掲げられ、戦死した兵士の栄誉を讃えて寒風のアイラの空にはためいた。式後、綺麗にたたまれた星条旗は、時のアメリカ大統領ウッドロー・ウィルソンに贈られ、大統領はスミソニアン博物館に寄贈した。
アイラの主婦達が、見知らぬアメリカの主婦達の愛する息子達の栄誉ある死を讃えて懸命に星条旗を手作りした話は心を打つものがある。