写真1.ラフロイグ蒸溜所の水源:蒸溜所の北1㎞程の所から北を眺めた風景である。遠方の山は南アイラの中央山地の南端で、200mくらい高さで連なっている。山向こうの小さな湖(Loch na Ben Brice)や 丘から流れる地下水は右下のキルブライド貯水池(Kilbride Reservoir)へ集められ、ラフロイグ蒸溜所の仕込み水や冷却水に使用される。
写真1.ラフロイグ蒸溜所の水源:蒸溜所の北1㎞程の所から北を眺めた風景である。遠方の山は南アイラの中央山地の南端で、200mくらい高さで連なっている。山向こうの小さな湖(Loch na Ben Brice)や 丘から流れる地下水は右下のキルブライド貯水池(Kilbride Reservoir)へ集められ、ラフロイグ蒸溜所の仕込み水や冷却水に使用される。
ラフロイグ蒸溜所のシングルモルトは、アイラの9つの蒸溜所の中で断トツの人気モルトで、2020年の販売実績は約31万ダースである。以下、Bowmore(16万)、Lagavulin(15万)と続く。
ラフロイグ蒸溜所は、アイラ島南岸、ポートエレンから東へ2㎞のラフロイグ(Laphroaig)にある。この地の牛飼い小作農だったDonaldとAlexander Johnston兄弟は、1810年頃から牛の飼料用の大麦の余りからウイスキーの蒸溜をしていたが、その品質の良さはつとに知られるようになり、1815年から牛飼いは止めてウイスキーの蒸溜専業に切り替えた。牛よりウイスキーの方がずっと利益が高かったからである。以来、既に200年を超える歴史を持つが、創始者のD(Donald). Johnstonの名は、今でもラフロイグ・シングル・モルトのラベルに記されている。
歴史年表
1815年:ラフロイグのDonaldとAlexander Johnston兄弟が専業で蒸溜を始める。
1836年:DonaldがAlexanderの経営権を買い取り単独のオーナーになる。
1847年:Donald、初溜廃液タンクに落下する事故で死亡。息子のDugaldがオーナーになったが、まだ11歳だったので実務は叔父のJohn Johnston他が受託し経営を行った。
1857年:成年に達したDugaldが経営を引き継ぐ。
1886年:Alfred Barnard来訪。
1887年:Dugald死去。子供がいなかったので、4人いた女兄弟の一人のIsabellaの夫のSandy Johnstonが経営を引き継いだ。
1907年:Sandy Johnston死去。
1908年:甥のIan Hunterが着任。それまでくすぶっていたMackie &Coのラフロイグの代理店契約を解約。
1908年:Peter Mackie, ラフロイグ蒸溜所に取水口を塞いで操業を妨害。
1908年:ラフロイグが手に入らないなら自分で同じものを作れば良いだろうと考えたP. Mackieは、ラガヴーリン蒸溜所内にラフロイグのコピーを造る。操作の細部はラフロイグのMash Manをヘッドハントしたが出来たウイスキーはラフロイグでもラガヴーリンでもなかったという。
1920年:アメリカの禁酒法施行。
1924年:ラフロイグ蒸溜所、蒸溜釜を2基から4基へ倍増。
1929年:Ian Hunter、ラフロイグ・モルトを医薬用としてアメリカへ輸出することに成功。
1933年:アメリカの禁酒法撤廃。
1944年:Ian Hunter、健康上の理由で蒸溜所のマネジャー職をBessie Williamsonへ委譲。
1954年:Ian Hunter死去。Bessie Williamsonがラフロイグ蒸溜所を遺贈され経営を担う。
1962年:アメリカのバーボン・メーカーのSchenley Internationalの英子会社でジンやスコッチ・ウイスキーのディスティラーだったSeager Evansがラフロイグの株の一部を取得して経営に参加。
1967年:Seager Evans、ラフロイグを完全子会社化。Seager Evans、Long John Internationalに改名。蒸溜所は増設され、蒸溜釜は5基に。
1972年:Bessie引退。蒸溜釜7基に増設。
1975年:英ビール会社Whitbread、Long Johnを買収。
1982年:Bessie死去。蒸溜室新設。
1989年:Long John、Allied Distillersへ売却。
1994年:プリンス チャールズ、ラフロイグ蒸溜所を訪問。
2005年:Jim Beamがラフロイグ、ArdmoreとTeacher‘sを買収。
2014年:サントリーがJim Beamを買収し現在に至る。
オーナーシップとマネージメントの変遷
上述したようにラフロイグ蒸溜所のオーナーシップとそれに伴うマネージメントの変遷は煩瑣であった。創業家のJohnston(KildaltonのJohnston)がオーナー且つ経営にあたったのは2代目のDugaldが逝去した1887年までで、その後1907年まではTallantのSandy Johnston(TallantのJohnston)が、そして一族最後のオーナー・経営者のIan Hunterが1954年に没してJohnstonの時代は終わった。DugaldもSandyも相続する子供がいなかったので相続権は姉妹にあってすんなりとは行かず、弁護士は忙しかった。関係者は同じ名前のJohnston, Alexander, John, Isabellaが多く、色々の情報ソースを見てもその続き柄を理解するのは容易でない。幸い、ラフロイグの研究家・コレクターとして知られているMarcel van GilsとHans Offringa氏が著した「200Years of Laphroaig」のなかでKildaltonとTallant両Johnston家の家系図を作成・掲載してくれているので何とか理解できた次第である。現在のラフロイグの礎を築いたSandy Johnston, Ian Hunter、Bessie Williamsonのプロフィールを紹介する。
Sandy Johnston (1832 – 1907)
1887年から1907年まで蒸溜所長兼パートオーナーを務めた。Sandyの姓は Donald/Dugaldと同じJohnstonだが出身はBowmoreの近くのタラント(Tallant)のJohnstonで, 母親がDonaldの妹だったのでDugaldとは従弟且つDugaldの妹のIsabellaと結婚していたので義兄弟の関係にあった。DugaldとSandyはDugaldの生前からよく助け合って色々な問題に当たっていたようである。
Sandy(と妻のIsabella)の功績の一つは1887年に地主との賃貸契約の更新で、彼らは1905年までの新しい賃貸契約を結んだ。この中で蒸溜所へ水を供給しているSurnaig Burn(小川)の水利権、ピートの採掘権、農場、隣接の1860年に閉鎖されたアードニッスル(Ardnistle)蒸溜所の建物の使用権を確立したことがあげられる。Sandyは1904年に賃貸契約を1905年から更に15年間延長している。
次にSandyは20世紀を見据えて蒸溜所の増強と近代化を行っていることである。Sandyがマネジャーになる前年の1886年に来訪したAlfred Barnardは、“蒸溜所は少し遠目に見た時は廃屋に見えたが、近づいてみると旧式の蒸溜所であることが分かった”と記している。同年に撮られた写真を見るとその通り廃れた佇まいで、Sandyが手を入れてからの1900年の写真を比較するとその変貌ぶりは歴然としている。Barnardは前日にLagavulinに行っているが、彼の報告ではラフロイグの生産能力はLagavulinの1/3以下であった。Sandyが行った改造の詳細は分からないが、1910年の写真やレイアウト図をみると生産施設が変わり貯蔵庫が大幅に増設されていることが分かる。
Ian Hunter (1886-1954)
ラフロイグの創立者D. Johnstonの姪の子にあたる。1908年から1944年まで蒸溜所長。当初叔母達と共有のオーナーだったが、1928年から100%オーナー。ラフロイグの品質とノウハウを頑固に守り、外部の人間は絶対蒸溜所に入れなかったという。
写真2. Ian Hunter: カントリー・ジェントルマンの装いで描かれている。ハンティング、ゴルフ、セーリングをよくした。極端な秘密主義、癇癪持ちで従業員に理不尽な要求をすることも多く接するのは難儀だった。一生独身で過ごした。(Picture Credit: Beam Suntory UK)
Ianは現在のラフロイグの基礎を作ったと言われている。多くの功績の第一は、着任早々の1907―1908年にMackie & Co.(後のホワイト・ホース)との代理店契約を解約したことである。Mackie &Co.はそれまで7-80年にわたってラフロイグの代理店をしていたが、Ianの前任の時代から契約条件はラフロイグにとってあまりにも不利と考えられていてきた。 Mackie & Co.側にとっても多くのブレンダーの需要が高いラフロイグのウイスキーは売れ筋だったし、自社のホワイト・ホースのフレンドに必須だった。オーナーP. Mackieは、解約は違法として裁判に訴えたが敗訴。癇癪持ちで知られていたMackieはカッと来てSurnaig川から分岐しているラフロイグ蒸溜所へ行く導水路に石を投げ入れてブロック、ラフロイグ蒸溜所は操業不能に陥った。当然、ラフロイグ蒸溜所は法に訴え今回も勝訴した。Mackie側にもラフロイグの名声を高めて来たのは自分たちであるという言い分はあったと思われるが実力行使で導水路を塞いだのは違法だった。
写真3.Kilbride川(Surnaig川):流れる水は写真1.のキルブライド貯水池に発している。ピート層を潜り抜けて来た水は茶色に着色している。写真の中ほど左にポールが立っているがそこがラフロイグへ行く導水路の分岐点でPeter Mackieが石を投げ込んでブロックしたところである。現在は、仕込み用の水はキルブライド貯水池から直接パイプで供給されていて、川水は冷却水として利用される。
ラフロイグのウイスキーが手に入らないなら同じ品質のウイスキーを自分で作ろうと考えたPeterは、Lagavulin蒸溜所内にMalt Mill蒸溜所を建設した。この話は拙稿第120章に記した。
1921-23年にかけて、Ianは領主のIain Ramseyから蒸溜所、農地、Texa島、隣接のアードニッスル蒸溜所跡を購入することに成功した。これで数年おきに賃貸契約を改定し、蒸溜所の経営もなにかと契約に縛られてきたが、以後すべて自分の判断で投資をすることができるようになった。
ラフロイグに限らず、スコッチ・モルト・ウイスキーはほとんどがブレンデッド・ウイスキーのブレンド用に使用されてきたが、ラフロイグ・シングル・モルトを海外に広めることに着手したのもIanである。アメリカが禁酒法(1920-1933)下にあった時代でもIanは、薬用に使われるウイスキーは禁酒法の例外とするという規定を盾に、税関にラフロイグを薬用と認めさせることに成功している。Ianは税関の係官にラフロイグを1,2杯試飲させそのフェノール様、ヨード様の香りは間違いなく薬であると認めさせたという。販路拡大の努力は中米やカリブ海諸国まで及んだ。
1924年から生産能力を倍増させた。ポット・スティルは2基から4基に、発酵槽は6基なり、原料や燃料の搬入、ウイスキーの搬出の為の桟橋が作られた。第二次大戦中蒸溜は休止、蒸溜所は英軍の火薬貯蔵所に接収された。Ianと秘書のBessie Williamsonは蒸溜設備やモルトの在庫が荒らされることのないよう最新の注意をはらった。
1954年、Ian Hunter死去。Port Ellen近くのキルノートン(Kilnaughton)墓地に葬られた。蒸溜所は長年秘書、蒸溜所長として右腕だったBessie Williamsonに遺贈された。
Bessie Williamson (1910 – 1982)
スコッチ・ウイスキー史上彼女ほど有名な女性はいないと言ってよい。グラスゴーで会社の事務をやっていた父親は第一次大戦で戦死、妹と弟と共に母親に育てられた。1932年にグラスゴー大学の人文系の学科を卒業し、バイトをしながら教員資格をとるためコースを受講、同時に書記も学んだ。
1934年、友人と一緒にアイラに行ったBessieはラフロイグ蒸溜所が募集していたパートの事務職に応募し採用された。一週間の予定のホリデーが一生をアイラで過ごすことになる始まりだった。
写真4.ラフロイグ蒸溜所のスタッフ一同:Bessie(右端)がラフロイグで働くようになったすぐ後で撮影されたと思われる。右側の樽の鏡に1934とある。中央のシェリー樽に三つ揃いのスーツを着てソフト帽をかぶって座っているのがIan Hunter。背景の大きな木桶は蒸溜釜から出てくるウイスキーの蒸気を液化する蛇管(Worm)が入っているワーム・タブ(Worm Tub)である。蒸溜釜は石炭の直火加熱である。(Picture Credit: Beam Suntory UK)
彼女を採用したIan Hunterは激しい気性の持ちだったがBessieとは相性がよかったようで、徐々に多くの仕事を任せられるようになった。1938年にIanが卒中に倒れ車椅子に頼るようになってからは、会社の事務の責任者になっている。前述したが、1944年に健康に限界を感じたIanはラフロイグ蒸溜所のマネージメントをBessieに引き継いだ。1954年Ian Hunter死去、遺言でBessieはラフロイグ蒸溜所のビジネス、アードニッスル・ハウス、Texa島と現金5千ポンド(現在価値で約2800万円)を贈られている。このようにしてラフロイグ蒸溜所のオーナー経営者になったBessieは引退する1972年までラフロイグ蒸溜所、スコッチ・ウイスキー業界やアイラの地域社会に多大な貢献を行っている。
彼女の功績だが、第一にラフロイグのモルト・ウイスキーと蒸溜所の評価をスコットランドでも海外でも高めたことである。スコッチ・ウイスキーの急成長は1960年から始まったが、当時の主力はブレンデッド・ウイスキーで、ブレンダーからのラフロイグ・モルトへの需要はずっと製造能力を超えていた。この生産を支えたBessieの経営スタイルは、従業員を信頼して任せるというもので、従業員に支持されモラルも高かった。
BessieはIanが始めたラフロイグ・シングル・モルトを海外市場で拡売する仕事も引継いだ。Bessieの海外での仕事ぶりに感心したSWA(Scotch Whisky Association)は、Bessieをスコッチ・ウイスキーの北米のアンバサダーに招聘、彼女はスコッチ・ウイスキーの製法や品質を説明して歩いた。現在、ほとんどの会社がウイスキー・アンバサダーによるセミナーを行っているが、これが始まったのは1980年代終わり頃なので、Bessieのアンバサダー活動は20年以上先行していた。
社業以外では、地域の社会活動に積極的に参加し推し進め、1963年に慈善事業への貢献に送られるOrder of St Johnを受賞している。
1960年ころからBessieは、今後の事業環境を考えると、ラフロイグは設備の近代化や貯蔵施設、在庫の積み増しに多額の資金が必要であることを理解し、1962年、1967年と1972年の3回に分けて株を手放すことにした。売却先はアメリカのバーボン・メーカーShenleyの英国子会社のSeager Evans(後にLong John International)であった。最後の株の譲渡は1972年で、ラフロイグ蒸溜所は157年の個人経営が終わった。
1967年に大幅な改造が行われ蒸溜釜は5基に増設された。石炭の直火は蒸気加熱に、Wormはコンデンサーに置き換えられた。Bessieの“人に温かい経営”も変化を余儀なくされた。1970頃までラフロイグは“失業救済所”と言われていた。Bessieは困窮している人の話を聞くと不憫に思い、空きがなくても雇ってしまったという。多くの定年を過ぎた労働者も働かせていたが、これは“年金制度が不十分である”というのが理由だった。多くの雇用を地元に与えてきたのは功績だが、Long Johnが進める近代的経営とは合わなかった。
彼女のもう一つの功績は、ウイスキーという男性のみが支配していた社会に、女性でも立派に務まるという範を示したことである。これは人類に対する貢献と言って良い。1972年にBessieは引退した。
彼女はカナダでのツアー中に出会ったピアニストで歌手のWishart Campbellと1961年に結婚している。Wishartはゴールデン・ボイス を持つと言われた有名歌手だったし、祖父はアイラからカナダに移住していて、いわば里帰りだったがアイラでは性格が変わっている、口先だけ、金目当てと言われて人気がなかったようである。
Bessieは1982年にグラスゴーで死去した。入院していた病院では、”1934年にアイラに行ったときには小さな飛行機だったが、今回グラスゴーに来る時も小さな飛行機(救急用の)だったのよ “と言っていたそうだが助からなかった。亡骸はアイラに運ばれIan Hunterと同じKilnaughton墓地に埋葬された。
写真5.BessieとWishart Campbellの墓石:写真中央の墓石の下に二人は眠っている。墓石には「愛しき思い出に。Elizabeth Williamson, アードニッスル、ポートエレン及びラフロイグ蒸溜所、1910年8月22日生、1982年没、記憶に残るのは彼女の長きに亙る地域への貢献である。彼女の愛した夫のWishart Campbell, 1901年3月4日カナダのオンタリオ生、1983年Bowmoreにて死去、自然主義者、カナダ放送の“カナダの調べ、黄金の声”のパイオニア」と刻まれている。(Picture Credit: Archive, University of Glasgow)
プリンス チャールズの来訪
ラフロイグ蒸溜所は、1994年、2008年、2015年の3回に亙りCharles現英国皇太子殿下訪問の栄に浴している。1994年、ラフロイグ蒸溜所はまだバランタイン傘下にあり、蒸溜所長はIan Hendersonだった。蒸溜所は殿下にご訪問の謝礼に1978年蒸溜(15年物)及び1883年(10年物)の樽2樽を献上、ウイスキーは瓶詰めしてからオークションに掛けられ、殿下は1978年ものからの収益はCancer Relieve Macmillan Fund(現Macmillan Cancer Support)へ、1993年ものからはErskine Hospitalへ寄付された。
1978年蒸溜の空樽もオークションに掛けられ、著名なラフロイグ研究家のMarcel van Gils氏が落札して保管していたが、2008年5月に蒸溜所に寄付された。
1994年の訪問時にラフロイグはRoyal Warrant (英皇室の認証)を賜っている。
写真6. Prince Charlesの樽:1994年、Charles皇太子殿下のご来訪時に献上された樽。1号貯蔵庫に保管されている。蒸溜年の1978の下に少し見にくいが“Charles“のサインがある。
現在のラフロイグ蒸溜所
写真7.蒸溜所の外観:Laphroigの意味は“広い湾沿いのくぼ地”である。外観は1967年に改造されてから変わっていない。右から製麦棟、キルン、仕込み/発酵の順で配置されている。蒸溜棟はこの建物の裏側にありここからは見えない。
諸元は下記の通りである。
● 製麦
蒸溜所内に伝統的なフロアー・モルティングを残していて必要量の約20%を賄っている。不足分は主としてアイラのポートエレン製麦工場から調達。どちらもフェノール値40ppmのハイ・ピーテッド・モルトである。
● 粉砕/仕込み
標準的なPorteus Millで粉砕。仕込槽はForsyth社製のラウター型。現在は一仕込み麦芽5.5トン、仕込みのサイクルタイムは約4時間である。
● 発酵
仕込み2回分の麦汁約52KLが段掛けで1本の発酵槽に入れられる。発酵槽はステンレス製6基、酵母はMauri社のクリーム・イースト、発酵時間は約55時間である。
● 蒸溜
初溜:形はプレーン、張り込み容量は10.5KL、一回の蒸溜時間約5時間、初溜コンデンサーの冷却温度は80℃の高温に設定され、初溜液は更にクーラーで20℃以下に冷却される。温水はキルンの麦芽を乾燥するのに利用され省エネが図られている。
再溜:蒸溜釜はランタン型、3基の小型蒸溜釜の容量は4.7KL、大型は9.4KLである。前溜時間の45分は非常に長く、ニューメイクになる本溜はアルコール度数が60%になるまで採取する。これは、本溜の後の方で流出してくるスモーキーのフェノール成分の回収率を高めるためである。再溜時間トータルは、小型釜約5時間、大型釜約6時間である。
溜液受けタンク:初溜液と余溜液は一つの受けタンク(Low wine and feints receiver)で混合され、ここから再溜釜に送られる。初溜と再溜のサイクルタイムが同調していないので、アルコール分はフェノール分が大きく変動しないように注意が必要である。スピリッツ・レシーバーに集められた本溜液のアルコール度数は68%である。
写真8.蒸溜室:1982年に新設され、加熱方法は蒸気、冷却器はコンデンサー。手前から3基が初溜釜、奥の4基が再溜釜で一番奥の再溜釜の容量は他の2倍になっている。
● 樽詰め
樽詰めは時にスピリッツは度数を63.5%にして樽詰めされる。年間生産量3,400KLAの70%のシングルモルト用にはバーボンの1st fillが使われる。残りはBallantine’sやTeacher’s等のブレンドに使われている。
● 貯蔵
シングルモルト用の樽の70%は蒸溜所の貯蔵庫で貯蔵される。
● 製品
最も代表的なものはLaphroaig 10年やQuarter Caskだが他にも幅広いレンジの製品がある。
● フレーバー
製品によって多少の違いはあるが、基本的には“惚れるか、嫌悪するか”(Love it or hate it)と言われるほど最も個性的な味わいである。主軸はピート、薬品的、海藻様、オイリーなどの力強さだが、そこにバニラやフルーティーの甘さが優しさを与えている。
謝辞:本章の取材に当たって協力いただいたLaphroaig蒸溜所マネジャーのJohn Campbell氏(2021年10月当時)、Beam Suntory UKの佐藤 元氏、Beam Suntory UK、Glasgow University Archiveに深く御礼申しあげます。