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稲富博士のスコッチノート

第124章 アイラ島蒸溜所総巡り−8.ボウモア蒸溜所

写真1.薄暮のボウモア蒸溜所:蒸溜所はインダール湖(Loch Indaal)のほとりに立っている。インダール湖は湖といっても大西洋につながっている海湖である。

ボウモア蒸溜所の創立は1779年で、現存操業しているスコッチウイスキー蒸溜所の中で2番目に古い。因みに最も古いとされているのはGlenturret蒸溜所で1775年の創業、3番目はStrathisla蒸溜所で1786年である。

ボウモア蒸溜所はその名の通りボウモアの町にある。ボウモアの町は1768年にダニエル・キャンベル・ザ・ヤンガー(Daniel Campbell The Younger)によって建設された。アイラ島の第2代の領主だったダニエルは、アイラの発展を進めるために、それまでボウモアの数㎞北東のブリッジエンドにあった教会と村をボウモアに移した。町はこの教会(珍しい円形である)から港までの大通りを中心に、通りが縦横十字に走る近代的な設計になっている。現在のボウモアにはアイラ島の行政事務所があり、人口は約700人である。

歴史年表

1779年:David Simson(Simpson)がボウモアで蒸溜を始める。

1816年:John Simson(David Simsonとの続柄は不明)が引き継ぐ。

1837年:グラスゴーのブレンダー、William and James Mutterが蒸溜所を買収。蒸溜所の近代化と増設を行い、水源のラッガン(Laggan)川から蒸溜所まで数㎞の導水路を完成させた。Mutterはボウモア・シングルモルトをイングランドや海外に拡売し、ウイスキーの評価は非常に高まった。

1841年:ボウモア蒸溜所、ウインザー城から樽入りウイスキーを受注。

1887年:アルフレッド・バーナード、蒸溜所訪問。同年、キャンベルタウンのJ. B. Sheriff & Co. がボウモアを買収。

1892年:R.B. Homes がオーナーに。

1925年:J. B. Sheriffが再度ボウモアを買収。

1940年:海軍が蒸溜所を接収し飛行艇の基地として使用。

1950年:William Grigor & Son Ltdがオーナーになる。

1951年:Stanley P. Morrison氏とJames Howat氏がウイスキー・ブローカーのStanley P. Morrison社を設立。

1963年:Stanley P. Morrison社がボウモアを購入。

1971年:Stanley P. Morrison氏死去。

1980年:エリザベス女王、ボウモア蒸溜所を訪問。

1994年:サントリー社がStanley P. Morrison社を買収。

2014年:ビーム・サントリー設立。

オーナーシップとマネージメントの変遷

ボウモア蒸溜所の243年の歴史の中で、際立っているのは1837年から1887年まで50年間蒸溜所を経営したウィリアムとジェームス・ムッター(William &James Mutter)家と、1963年にボウモアを購入し1994年間まで31年に亙って経営したモリソン(Morrison)家である。

William &James Mutter
初代のウィリアム・ムッターは多面的な人だったようで、商売に長け、蒸溜業者、アイラの農業の改善に貢献したファーマーでもあった。ムッターの時代は50年も続いているので、いつの時代のものか分からないが一枚のボウモア・シングルモルトのプロモーション・ポスターがある。

この、大型のゴブレットに氷を入れてボウモア・シングル・モルトを注ぎレモンのスライスを加えたオン・ザ・ロックは、ムッターが1887年以前にカナダ市場でのプロモーション用に作成した。英本土ではウイスキーに氷を入れて飲む習慣は伝統的になく、現在でもほとんど見かけないが、19世紀中頃のアメリカ・カナダでは飲料は冷やして飲むものになっていたし、氷に食塩を加えて温度を氷点下20度くらいに下げてその中でアイスクリームを作ることも広く行われていた。使われた氷はニューヨークのハドソン川や合衆国東部では最北の州であるメイン州で採取された天然氷であった。

ムッターのポスターは、本社のあったグラスゴーで制作されたのなら使われた氷はノルウェーから輸入された可能性が高いが、カナダで作られたものなら北米産の天然氷か、ちょうど台頭してきた製氷機による人工氷の可能性もあり分からない。いずれにしても、ボウモア・シングル・モルトのロックを推奨したムッターの斬新なビジネス感覚には驚く。

写真2. ボウモア・シングルモルトのプロモーション・ポスター:テーブルの上は左からウイスキーのボトル、レモンの乗った皿、レモン・スライスを入れたロックと氷入れが見える。(Picture Credit: Beam Suntory UK)

ムッターの大きな業績の一つは、蒸溜所で使う水の確保である。蒸溜所の拡大に伴って水の必要量も増加したが、その安定的な確保を可能にしたのは数㎞に及ぶラッガン川からの導水路の建設である。導水路といっても農場の中を流れている幅1mくらいの小川である。長さもさることながら、取水口から蒸溜所までの高低差が小さいので水をうまく流すルートを選んで建設するのは難事であった。

写真3.ラッガン川:この堰の手前からボウモア蒸溜所へ行く導水路が分岐している。ピート層を通り抜けてきた水は褐色に着色している。

Morrison(モリソン)家
グラスゴーのウイスキー・ブローカーだったスタンレー・P・モリソン(Stanley P. Morrison)氏がInvernessのブレンダーでボウモア蒸溜所を所有していたWilliam Grigor &Son社から蒸溜所を購入したのは1963年である。

スタンレー・P・モリソン氏の先々代はグラスゴーの大手の建設会社、Morrison and Mason社のJohn Morrison氏でグラスゴーの全盛時代のビクトリア時代にグラスゴー市の主要建造物の半分くらいの建設に関わったと言われている。市の中心部のジョージ・スクエアとその東側の市庁舎、セントラル駅の南側のクライド川に掛かっている鉄道橋、もう少し下流のストッブクロス(Stobcross)にあったクイーンズ・ドック、グラスゴーから西に向かう幹線道路グレート・ウェスターン道路のケルビン・ブリッジ等枚挙に暇がない。クイーズドックは入り口がスイング・ブリッジ(旋回橋)で開閉される大きな水域で、その中の埠頭には関税事務所があって出入りする船は関税手続きが終わるまでブリッジは開けられず出てゆくことが許されなかった。クイーンズ・ドックは1977年に埋め立てられたが、その旋回橋の開閉を行った水圧ポンプの建物、ポンプハウス*は今も残っている。

*ポンプハウスはモリソン氏の長男のティム・モリソン氏が購入し2017年にクライドサイド蒸溜所としてオープンさせた。

写真4. スタンレー・P・モリソン氏(1900-1971)の肖像:ほぼ独力でグラスゴー第一のウイスキー・ブローカーになったが、先見の明に優れブローカーの時代は去ったと考えて1963年にボウモア蒸溜所を購入した。(Picture Credit: Beam Suntory UK)

スタンレー・P・モリソン氏がなぜ建設業を継がなかったのかよくわからないが、Morrison and Mason社は1921年に終わっている。第一次大戦後の不況が原因を思われるがここでは正確ではない。ともかく、モリソン氏は奥さんの実家の酒類会社に入ったが、これが彼が生涯ウイスキーの仕事をするきっかけになった。若い時からいろいろなウイスキー会社を手伝い、またパートナーとして経営していた。1936年にはパートナーのランディーと組んでChivas Brothersを買収した。(後にSeagramに売却)

モリソン氏がブローカーとして活躍した時代は、Distiller(蒸溜業者)とモルトやグレーンを蒸溜所から買って製品にするブレンダー(Blender)は割合明確に分かれていたし、蒸溜所もブレンダーも数が多かった。ウイスキーは長年の貯蔵熟成が必要な為、需要の予測は難しく必ず過不足が発生するが、余ったり、不足した原酒の売買の仲介をブローカーに依頼をしたのでブローカーの役割は大きかった。時には何千樽という単位の取引もあり、ブローカーには多額のコミッションが入ったし、時には蒸溜所や会社の売買を仲介することもあった。しかし時代は変わる。1960年頃からスコッチウイスキーは急成長し、大手を中心に蒸溜から貯蔵、ブレンド、パッケージング、マーケティングの垂直統合が進んでブローカーの活躍する余地が大幅に少なくなったのである。

1951年にモリソン氏は公認会計士のジェームス・ハウアット(James Howat)氏を副社長に迎えスタンレー・P・モリソン社を設立した。ハウアット氏が入社する経緯について逸話がある。モリソン氏は有能なビジネスマンで業界からの信頼も厚かったが、原酒の売買はリスクも多く何度か失敗している。銀行へ新しい融資を頼みに行ったところ銀行は、“モリソンさん、貴方は優秀なビジネスマンだがお金の管理が十分でない。融資しても良いがそれには条件がある。お金をしっかり管理できるプロの会計士を雇うことだ。一人紹介したい人がいる。公認会計士のジェームス・ハウアット氏で仕事も出来るし人柄も良い。今後お金のことは彼に相談すると良い”、と言った。これに対してモリソン氏は、“はい。ハウアット氏に入ってもらいます。今後お金のことはすべて彼に相談します”、と約束した。

1963年のことである。モリソン氏がグラスゴーのセントラル・ホテルのバーで一杯やっていたところ、ボウモア蒸溜所が売りにだされるという会話が聞こえた。彼はすぐオーナーのGrigorに電話、“ボウモアを売るのか?いくら?買う。もう成約だぞ”と言ったという。翌日朝オフィスに行ったモリソン氏はハウアット氏を呼んで、“ボウモアを買った”、と告げた。ハウアット氏は仰天して、“えっ、どこにそんな金があるのですか?”、と言うとモリソン氏は、“さっさと出かけて金を見つけてこい”と言ったという。金のことは全てハウアット氏に相談しますという銀行との約束は守られなかったが、モリソン氏の即決が会社をブローカーからディスティラーへ転換する重大な一歩となった。

来訪者

アルフレッド・バーナード
何度も引用しているアルフレッド・バーナードは、1887年にボウモア蒸溜所を訪問している。見聞録の冒頭にオーナーはW. & J. MutterとあるのでMutterが蒸溜所をSheriffに売却する直前である。バーナードのボウモア蒸溜所に関する記述は、訪問したアイラの9蒸溜所中で最も多くの6ページを割いているが、これは当時ボウモアがアイラで最大の蒸溜所だった事によると思われる。

一行は宿泊していたポートエレンから馬車でブリッジエンドを経由してボウモアに向かうのだが(当時海岸寄りの道は無かった)、今なら車で15分の所を4時間かかっている。景色は、バーナードが、“こんな退屈な風景の旅はしたことがない、家は2,3軒しか見えなかったし木は殆ど生えていない”というほどうら寂しかった。それでもブリッジエンド町に近づくとみどりは多いし、ホテルは絵のように綺麗と機嫌を直している。

蒸溜所の見学記録は詳細で、大麦の貯蔵庫からフロア・モルティング、粉砕、仕込み、発酵、蒸溜、貯蔵庫とすべて数字入りで記載されている。珍しいのは、エッチングで挿入されている蒸溜室の絵の中の再溜釜の一つのスワンネックからコンデンサーに行くラインアームが二股に分かれていることで、ウイスキー史家も首を捻っている。この時代のボウモア蒸溜所はアイラで最大で、その能力は100%アルコール換算で年産500キロリットルであった。(これは現在のボウモア蒸溜所の能力の1/4で相当な規模である)

エリザベス女王のご来訪
ちょうど本稿を書いている間の、6月2日から5日の4日間はエリザベス女王在位70年を記念したプラチナ・ジュビリーが全英で盛大に祝われているが、ボウモア蒸溜所は1980年8月9日に女王陛下御訪問の栄を受けている。女王のスコッチウイスキー蒸溜所の訪問は、ボウモア蒸溜所が最初でおそらく最後である。

以下のエピソードは、Buxton(2014)に依る。女王陛下のご来訪は蒸溜所にとって非常な栄誉ではあるが対応は大変だった。まず、お車をどうするかであったが、これはハウアット氏が使っていたロールス・ロイスを前日にアイラに運びお使いいただくことにした。特別な女王陛下を含む保険も冗談ではなく必要と思われたがどのように計算されて掛けられたかは不明である。車は完璧に整備され陛下の来られる前日にフェリーでアイラ島行きのフェリーの出るケナクレーグ(Kennacraig)に向けて出発した。ある信号で停車していたところへ事もあろうに後続の車がロールス・ロイスに追突、トランクは大きく凹み、両方のテールライトが破損してしまった。凹んだ車にお乗りいただく訳にはゆかず、緊急連絡で修理に必要なパーツはアイラに空輸、現地の自動車修理工は夜を徹して働き間に合わせた。

写真5.エリザベス女王をボウモア蒸溜所にお迎えするハウアット社長:陛下がどのような順路で蒸溜所を回られどういった感想をもたれたか分からないが、2014年の英国海軍の航空母艦Queen Elizabethの進水式にシャンパンではなくBowmore Surfが使われたことからも英王室はボウモアに満足されているようである。(Picture Credit: Beam Suntory UK)

女王のご来訪を記念して会社は当日2樽のシェリー樽を樽詰し女王に献上した。
樽詰から21年後の2002年、女王陛下の樽は女王のゴールデン・ジュビリーを祝ってBowmore Queen’s Caskとして瓶詰めされて王室に納められた。総数は640本強だったが、オークションに出されたのは1本だけで、女王はバッキンガム宮殿を訪れた国内外の貴賓にお土産として渡された。

現在のボウモア蒸溜所

写真6.ボウモア蒸溜所のフロア・モルティング:スコッチのモルト蒸溜所で伝統的なフロア・モルティングを残している7蒸溜所の一つである。発芽期間は5-7日、空調設備は無く、写真のようにファンと窓の開閉で温度を調節する。

● 製麦
大麦品種は現在主流のLaureate. 年間蒸溜所が必要とする麦芽の約25%を生産する。乾燥の前半10-15時間はピートだけを燃やし、後半の40-45時間は熱風で乾燥させる。麦芽の総フェノール量は25ppmである。

● 粉砕
1966年製のPorteus粉砕機。

● 仕込み
ステンレス製のセミラウター・タイプ。1仕込み当たりの麦芽量は8トン。麦汁量は40,000リットル。

● 発酵槽
容量40,000リットルの木桶6基。発酵時間62時間。発酵終了もろみのアルコール分は7%。

●初溜釜
張込み量20,000リットルが2基。初溜時間は約8時間。

● 再溜釜
張込み量11,000リットルが2基。前溜時間35分(度数74%で本溜へ切り替え)、本溜2.5-3時間(度数61%で余溜へ切り替え)、余溜3.5-4時間度数2%までとる)。本溜の平均度数は68.8%。

写真7.蒸溜室:手前2基が再溜釜、奥の2基が初溜釜である。加熱は蒸気。コンデンサーはシェル & チューブ。コンデンサーから出る温水は麦芽乾燥の熱源に利用し省エネが図られている。

● 貯蔵庫
蒸溜所内にダンネージ貯蔵庫(No.1)、ボウモアの町はずれにダンネージとラック式各1棟。総貯蔵数約22,000丁。シングルモルト用は全てアイラで貯蔵する。

● 主要製品
ボウモア 12, 15, 18, 25年。

● フレーバー
全ての製品の基調は、完熟したフルーツの甘さ、ピーティー、シェリー香、干し草様、バニラの香と、ピーティーで長い余韻である。

謝辞:本稿の取材に当たって協力いただきましたボウモア蒸溜所マネジャーのDavid Turner 氏、ビーム・サントリーUKの佐藤 元氏、Beam Suntory UK社に御礼申し上げます。
又、写真2. ボウモア・シングルモルトのプロモーション・ポスターがカナダ向けに作成された事をご指摘いただきましたコピー・ライターの達磨 信様、ありがとうございました。

  • 参考資料
  • 1. Barnard, Alfred (2003). The Whisky Distilleries of the United Kingdom, Birlinn Limited, Edinburgh.
  • 2. Jefford, Andrew (2005). Peat Smoke and Spirit, Headline Book Limited, London.
  • 3. Buxton, Ian (2014). But the Distilleries Went On. The Morrison Bowmore Story.
  • 4. Hume, John R. & Moss, Michael S. (2000). The Making of Scotch Whisky, Canongate Books Ltd.
  • 5. https://www.Bowmore.com
  • 6. Our Story | The Clydeside Distillery | TCD
  • 7. Morrison & Mason Ltd(fl. 1870-1921), builder, a biography (glasgowsculpture.com)
  • 8. Stanley P. Morrison | Scotch Whisky
  • 9. Morrison Bowmore Distillers | Scotch Whisky
  • 10. 氷貿易 - Wikipedia