長年スコッチ・モルト・ウイスキーは、その産地と品質の特徴によって、ハイランド、ローランド、キャンベルタウン(Campbeltown)、アイラの4つに分類されていた。* その中で、ハイランドに次ぐ規模を誇っていたのがキャンベルタウンで、19世紀以降で存在が確認されているモルト蒸溜所は36蒸溜所、加えて間違いなく存在したと思われる蒸溜所が7ヶ所ある。最盛期の19世紀後半には当時操業していた21の蒸溜所で、200万プルーフ・ガロン(純アルコール換算で約 5,200,000L)のウイスキーが生産されたが、第一次世界大戦の頃から急速に衰退し、現在では2002年に再興されたグレンガイル(Glengyle)蒸溜所を入れて3蒸溜所が操業しているにすぎない。この激しい盛衰の歴史をもつキャンベルタウンを訪れた。
グラスゴーからキャンベルタウンへ :キャンベルタウンはグラスゴー南西にある。グラスゴーからは多くのLoch(湖や入江)を迂回して行くので結構遠い。
キンタイアー半島の南端近くのキャンベルタウンへの道は遠い。グラスゴーから西方、スコットランド民謡で有名なロッホ・ローモンド(Loch Lomond:ローモンド湖)に向かって走ると、30分ほどで右側にバランタイン社のキルマリッド工場の横を過ぎる。その後10分ほどで、右側にスコットランドで3番目に大きな淡水湖ローモンド湖が見えはじめる。この辺りは自然保護区に指定されていて、明媚な風光と自然で知られている。程なく、道は西に向きを変え、この地方の豪族アーガイル(Argyle)候の居城のあるインヴェラリー(Inveraray)からは南に向かう。州都のロッホギルプヘッド(Lochgilphead)、キンタイアー半島の北の付け根にある美しい漁港のターバート(Tarbert)を過ぎると、後は大きな町はなく、林、放牧地、湖をぬってひたすら走って行くことになる。グラスゴーから214km、車で約3. 5時間のドライブだった。
ロッホ・ローモンドとローモンド山:キャンベルタウンやスコットランド西岸を北へ向かう途上にある。グラスゴーの西方、車で約30分、どちらも名山と名湖である。
大西洋側にあり気候温暖なキャンベルタウンは古くは青銅時代から人々が居住し、今でこそMainland Island(陸の孤島)と言われているが、船が重要な交通手段だった時代には内海に向かって開いた良港がある便利なところとして町が興った。漁業、農業、石炭などの資源に恵まれて、1900年初頭にはウイスキー、漁業、造船業が栄え、スコットランドで一人当たり所得が最も高い町だった。これらの産業が衰退した現在は観光中心の瀟洒な町となっている。現在の人口は約5千人である。
キャンベルタウン湾とその向こうに見えるキャンベルタウンの町:キャンベルタウン発展の原動力になったこの湾も、ウイスキー全盛時代はウイスキーの蒸溜廃液で汚染されひどい状態だった。
キャンベルタウンのBenmore蒸溜所跡:1927年迄操業した有力蒸溜所。今はバス会社の車庫になっている。キャンベルタウンではこのような旧蒸溜所の廃墟が随所に見られ、往時を偲ばせる。
いつ頃からキャンベルタウンでウイスキーが蒸溜されるようになったかはスコッチ・ウイスキーの歴史と同じでよく分からない。1609年には記録が存在するが、実際にはそれよりはるか以前から蒸溜が行なわれていたと考えるに難くない。スコットランドの蒸溜技術は、アイルランドから伝えられたというのが定説になっている。スコットランドで最もアイルランドに近い場所はキャンベルタウンからすぐ南西、サー・ポール・マッカートニーの歌『Mull of Kintyre』で知られるキンタイアー岬で、北アイルランドまでわずか20km、キンタイアー岬に立つと天気の良い日にはアイルランドがはっきり展望できる。キャンベルタウンでは非常に早い時代から蒸溜が行なわれていたと想定できる。
キャンベルタウンのウイスキー業が19世紀におおいに栄えた理由として、良質で豊富な水があり、原料の大麦と燃料の石炭が近くで手には入った事、良港な港湾があり、当時最大の市場だったグラスゴーや、イングランドへの輸送に便利だった事が上げられている。キャンベルタウン湾を見下ろす高台には、当時ウイスキーで財を成した人の豪邸が残っていてその時の繁栄を偲ばせる。
しかしながら、社会の変化は早い。キャンベルタウンのウイスキー生産地としての優位性は20世紀に入ると急速に失われ、かえって弱点となって襲いかかった。世界第一次大戦、増税、禁酒運動、アメリカでの禁酒法、大恐慌などウイスキーに不利な社会的要因条件が重なった。 市場でブレンデッド・ウイスキーが急成長するなか、ブレンダーは伸びが効くアイラモルトか、フレーバーに優れたハイランド・モルトを求め、重苦しいか、3回蒸留が中心でパワーに欠けるキャンベルタウン・モルトは敬遠された。生産側の要因としては、規模の拡大から、かって地場で調達できた原料、燃料が不足し遠方から運ぶ必要が生じてコスト・アップを招いた。 不況期につきものの業界再編成にも乗り遅れ、1920年には20あった蒸溜所は、10年後には3蒸留所だけ、1934年には2カ所だけになってしまっている。小さなキャンベルタウンの町を散策すると、随所に蒸溜所の廃墟が見られ、“兵共の夢の跡”の感慨を禁じえない。
スプリングバンク蒸溜所の仕込槽:100年以上使われている。本体は、鋳鉄製、開口面積の小さな濾板、パドル式の攪拌機など全て近代エンジニアリング以前の時代物だが、これがこの蒸溜所のウイスキーの風味を生み出すと言う。
このような困難な状況にあっても、粘り強く生き抜いてきた蒸溜所が2ヶ所ある。スプリングバンクとグレン・スコシア両蒸溜所である。最近スプリングバンク社は、1925年から休止していたグレンガイル蒸溜所を再興したので、現在は3蒸溜所が操業している。 スプリングバンク蒸溜所は、今でも1828年当時の設備、製法がほとんどそのまま使われ、“操業している博物館"といわれるクラシック蒸溜所である。製麦から瓶詰まで、全工程を行なっている唯一のスコッチ蒸溜所としても知られている。
テースティング:スプリングバンク蒸溜所でテースティングするバランタイン社マスターブレンダーのヒックス氏。左は、サントリー山崎蒸溜所 工場長の宮本氏。
蒸溜所見学の後でウイスキーをテースティングさせてもらった。主力のスプリングバンク(2 . 5 回蒸溜**)と、同じくこの蒸溜所で蒸溜しているロングロー(Longrow,2 回蒸溜)とヘーゼルバーン(Hazelburn,3 回蒸溜)の3種。スモーキーさがなく、モルティーで軽快、マイルドなヘーゼルバーン、アイラを思わせる強いピーテイーさと重厚なロングロー、完熟した果実のフルーティーさ、軽いスモーキーがあり味わいが濃厚なスプリングバンクと、どれも個性のある良いウイスキーだった。テースティングした我々一行にバランタイン社のマスター・ブレンダー、ロバート・ヒックス氏も入っていたので、蒸溜所の担当者は些か緊張気味だった。
へーゼルバーン蒸溜所跡:1925年の閉鎖まではキャンベルタウンで最大規模の蒸溜所だった。竹鶴氏は1920年にここでウイスキー製造の研修をした。
キャンベルタウンのウイスキーについて書くと、日本のウイスキー関係者としてはこの蒸溜所について触れない訳にはゆかない。それと言うのも、後にサントリー(当時は壽屋)に入り、創業者鳥井信次郎に協力して山崎蒸留所を建設した竹鶴政孝氏が研修した蒸溜所だったからである。竹鶴氏は1920年の1月から5ヶ月間、新婚のリタ夫人を伴ってキャンベルタウンに滞在し、この蒸溜所で実習した。当時のへーゼルバーンはキャンベルタウンで最大規模の蒸溜所だったが1925年に閉鎖された。
1. Glen, A. The Making of Whisky in Campbeltown : in The Campbeltown Book, Kintyre Civic Society (2003)
2. Townsend, B. Scotch Missed. Neil Wilson Publishing (1997)
3. Barnard, A., Whisky Distilleries in the United Kingdom (1887), New Edition. Newton Abbot (1969)
4. Checkland, O. Japanese Whisky, Scotch Blend. Scottish Cultural Press, Edinburgh (1998)
5. www: Campbeltown's Distilleries (Dec.2004)
* 現在では、Speyside, Highland, Island, Islayという分類がよく使われている。
** 2回以上ポットで蒸溜するには色々のバリエーションがあるが、ここの2 . 5 回蒸溜というのは、3回目の蒸溜を行なう時に初溜液を一部加えるのでこのように呼んでいる。